妖魔夜行 幻の巻 山本弘/友野詳/清松みゆき/西奥隆起 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)妖狐《ようこ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)文車|妖妃《ようき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  第一話  まぼろし模型           山本  弘  第二話  虚無に舞う言の葉         友野  詳  第三話  未完成方程式           清松みゆき  第四話  狐高               西奥 隆起  第五話  どっきり! 私の学校は魔空基地? 山本  弘   妖怪ファイル   あとがき [#改ページ] [#ここから5字下げ]  あなたは、道に迷ったことがありますか。  私は、よく迷ってしまいます。  ほら、見てください。真正面に道が伸《の》びています。まっすぐその先に、大きな高層ビルが見えている。あそこへ行くのです。  ただ、素直《すなお》に通りをたどってゆけばいいのに……。  まっすぐで広い道は、やはり歩く人々も多いじゃありませんか。なんだか、ぶつかりそうになります。思い通りに進めません。車道からは、生暖かい排気《はいき》ガス。  脇《わき》へとそれる道を見つけると、ついふらふらと入っていきたくなるんですよね。ほら、あった。いえいえ、行くべきところは忘れていませんよ。曲がりはしません。大通りと並行《へいこう》している裏道へ移れるかなと、そう思っただけなんです。  鉄筋コンクリートとガラスのビルが立ち並ぶ、騒々《そうぞう》しい表通りの町並みから、古い日本家屋がたたずむ路地へ。  大丈夫《だいじょうぶ》、ビルはちゃんと見えているのですから、それを目印にすればいいはず。  歩いているうちに、小さな道は行き止まりになってしまいました。元の大通りに戻《もど》る……のは、なんだか悔《くや》しいですね。  こっちの路地は抜《ぬ》けられないかな?  気がつけば、ビルは密集した建物の向こうに消えて、はて、ここはどこだろう、というありさまでした。  でも、そういう時にかぎって、穏《おだ》やかな雰囲気《ふんいき》の喫茶店《きっさてん》や、こぢんまりしたいい感じの美術館なんかに、ばったり出くわしたりして。  時には、道に迷うのもいいものです。脇目もふらず、まっすぐに進むだけでは見つからない何かにだって出会えますから。  ただし、最後にたどりつきたい場所がどこなのか、なんのためにそこへ行くのかということだけは、お忘れにならぬよう……。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第一話  まぼろし模型  山本弘   1.突然の訪問者   2.道をはずれた男   3.プラモの宝庫   4.コレクターの伝説   5.真の価値 [#改ページ]    1 突然の訪問者  その男がドアを押《お》し開け、よろめくように <うさぎの穴> に飛びこんできたのは、時計の針がとうに深夜を回って常連客たちもみんな帰り、店じまいの準備をはじめた頃《ころ》だった。ホウキで床《ゆか》を掃《は》く手を止め、振《ふ》り返ったかなたは、男と視線が合った。 「あの……」  何か言いかけて、男はとまどい、言葉を飲みこんだ。四〇代前半といったところか。痩《や》せ型《がた》で、ポロシャツにスラックスというラフな格好《かっこう》だ。眼鏡《めがね》をかけた温和《おんわ》そうな顔は、いかにも力仕事に縁《えん》のなさそうなタイプだ。まるで何百メートルも走ってきたかのように、肩《かた》を落とし、はあはあと息をしている。  眼鏡の奥《おく》にある目には、深い疲労《ひろう》と絶望の色が浮《う》かんでいた。  勢いよく飛びこんできたものの、男は入口から三歩入ったところで立ち止まり、おどおどと店内を見回していた。思い描《えが》いていた印象と違《ちが》い、あまりにも普通《ふつう》のバーだったからだ。カウンターや空の客席、店の奥にある古いピアノ、壁《かべ》に掛《か》かったアンティーク時計などに、不安そうに視線をさまよわせる。本当にここがあの店なんだろうか? 目の前にいるこのエプロン姿の少女にしても、ごく普通の中学生にしか見えないではないか……? 「ご用ですか?」  かなたは優《やさ》しく声をかけた。困惑《こんわく》し、疲労し、おびえながらも、男はなけなしの勇気を奮い、かすれた声を絞《しほ》り出した。 「あ、あの……ここは例の……その……お店……ですよね?」 「ええ」  その返事を聞いて、男は体を震《ふる》わせ、泣きそうな声で訴《うった》えた。 「お願いです! もうここしか……ここしか頼るところがないんです!」  店内にいるのは、男の他《ほか》には、店のマスターと、その娘《むすめ》のかなただけである。かなたはちらっと、カウンターの奥で片付け仕事をしていた父に目をやった。マスターは無言でうなずいた——お前にまかせたよ、と。 「まあ、そこに座《すわ》って」  言われた男は、近くの椅子《いす》に倒《たお》れるように腰《こし》を下ろした。老人のように背中を丸め、額《ひたい》を押さえて、静かにすすり泣きはじめる。  向かいの席に座り、かなたはあらためて男をよく観察した。この店には深刻な悩《なや》みを抱《かか》えた人間がちょくちょく訪《おとず》れる。しかし、これほど憔悴《しょうすい》しきった男を見るのは、かなたにとっても珍《めずら》しいことだった。  ベージュ色のスラックスは皺《しわ》だらけ、白いポロシャツの襟《えり》は黒ずみ、腋《わき》には汗《あせ》の染《し》みができている。無精髭《ぶしょうひげ》も生やしており、髪《かみ》も乱れていた。かなたの人間|離《ばな》れした鋭敏《えいびん》な嗅覚《きゅうかく》には、不快な汗の臭《にお》いが強く感じられた。もう何日も服を着替《きが》えていないのだろう。だが、見たところ怪我《けが》をしている様子はないし、健康状態が悪いわけでもなさそうだ。 「どうしてここのことを?」  かなたは訊《たず》ねた。 <うさぎの穴> は特別な店だ。渋谷《しぶや》の繁華街《はんかがい》にあり、店の名前も口コミで知られているものの、訪れるのは難しい——ある条件を満たした者にしか見えない仕組みになっているのだ。 「会社で……事務の女の子たちが前に話してたんです。この店のことを……」男は泣きながら、途切《とぎ》れ途切れに話しはじめた。「もちろん信じなかった。そんなの、ただのおとぎ話だ、あるわけないって……でも、他にもう頼るところがなくて……警察に行っても無駄《むだ》だし、友達に話したって信じてくれない……無論、妻の実家にも……それで、ふと、この店のことを思い出して……たとえおとぎ話でも、他に頼れるものがなくて……それで必死になって、探して探して……」 「探し当てたってわけね」 「これを——」  男はズボンの尻《しり》ポケットから何かをごそごそ引っ張り出すと、テーブルの上に投げ出すように置いた。  預金通帳と印鑑《いんかん》だった。 「——四二六万あります」男は震える声で、しかしきっぱりと言った。「全財産です。みんな差し上げます。ですからどうか、息子《むすこ》を——直純《なおずみ》を……」  男はテーブルに手をつき、深く頭を下げた。  かなたは納得《なっとく》した。この男は確かに、この店に来ることのできる条件を満たしていた。だからこそ、普通の人間には見ることのできない入口の看板を見ることができ、エレベーターの <5> という存在しない階数のボタンを押すことができたのだ。  妖怪《ようかい》の協力がどうしても必要な者、という条件を。 「話してくれる? 最初から」 「は……はい」男は涙《なみだ》をぬぐい、おずおずと話しはじめた。「二日前……妻の三回|忌《き》の法要の帰りに……」    2 道をはずれた男 「んん〜? 変だな……」  江田島《えたじま》勇作《ゆうさく》がカーナビの異状に気がついたのは、長野《ながの》県の中央部、山の間を曲がりくねって続いている県道を走り、中央自動車道に向かっている途中だった。 「どうかしたの?」  助手席に座ってゲームボーイに熱中していた直純が顔を上げ、しきりに首をかしげている父親の横顔を見た。 「いや、カーナビの表示が変なんだ」勇作はモニターをとんとんと指で叩《たた》いてみせた。「さっき、地図の上ではT字路を通過したはずなんだが、T字路なんてどこにもなかった。それに、この地図だと、左側には川が流れてるはずだろ?」 「あ、ほんとだ」  直純は助手席の窓から外を見た。山の斜面《しゃめん》に広がる鬱蒼《うっそう》とした雑木林《ぞうきばやし》が見えるだけで、川はどこにも見当たらない。 「さっき、トンネルに入ったじゃない。そのせいじゃない?」 「うーん……」  勇作は考えこんだ。カーナビに応用されているGPSは、人工衛星からの電波を受信して現在位置を特定するシステムである。だからトンネルの中など、電波の届かないところに入ったら、一時的にGPSは役に立たなくなる——しかし、トンネルから出ればまた元に戻《もど》るはずなのだが。  モニターの中では、前方の道は川に沿ってほぼまっすぐ続いていた。だが、実際の道は大きく左に湾曲《わんきょく》している。どうなるのかと思って見ていると……。 「おいおいおい」  勇作はあまりのバカバカしさに苦笑した。車の現在位置を示すモニターの中の三角印が、しだいに左にずれていって、川を飛び越《こ》え、道も何もないところを進み続けているではないか。  これでは、車は存在しない道を走っていることになる。  車を止め、リセットして再起動してみたが、結果は同じだった。モニターの中の三角印は、どこかの山の中腹にめりこむようにして止まっている。 「故障?」 「らしいな」 「長く使ってるもんね、これ——僕《ぼく》がいた頃《ころ》からずっとでしょ?」  僕がいた頃、という言葉に、勇作は苦い想《おも》いを噛《か》みしめた。 「父さん、何でも古いのが好きだもんね。プラモでも何でも」 「それは違《ちが》うぞ」勇作は慌《あわ》てて否定した。「これでも買った時は最新型だったんだ」 「でも、故障した」 「……ああ」 「この道、来た時に通った?」 「いや、記憶《きおく》にないな」 「要するに迷ったわけだ?」  直純はやけに楽しそうに言った。父の困った顔を見るのが楽しいらしい。子供というのはそういうものだ。 「ああ」勇作はしぶしぶうなずいた。「確かに迷った」 「頼《たよ》りないなあ! そんなんで今日中に東京に着けんの?」  九歳の息子に笑われ、勇作は顔が火照《ほて》るのを覚えた。二年半ぶりに父親らしいところを見せてやろうと思ったのに、いきなり失態をさらしてしまうとは……。 「だいじょうぶだ!」勇作は無理に力強く言った。「方向は間違ってない。このまま行けば、どこかで中央自動車道に突《つ》き当たるはずだ。そしたらインターを探せばいい」 「信頼《しんらい》してるよ、父さん!」  口調は冗談《じょうだん》半分であっても、勇作にはその言葉がずしりと来た——信頼してるよ。  勇作はアクセルを踏《ふ》みこみ、車を再スタートさせた。そう、息子の信頼を裏切るわけにはいかない。せめてこの夏休みの間だけでも、息子を守り、愛する、良い父親でなくてはならない。  あの日のような失敗は、二度とするわけにいかない。  今日は妻・紀美子《きみこ》の三回忌の法要の帰り道だった。  正確に言えば元妻だ。三年前に離婚《りこん》し、子供を連れて長野の実家に帰ってしばらくして、あっけなく事故死した。崖沿《がけぞ》いの道を自転車で走っていてトラックにはねられ、崖下に転落したのである。  計報《ふほう》を聞いて東京から駆《か》けつけた時には、もう埋葬《まいそう》まで済んでしまっていた。勇作に敵意を抱《いだ》いていた紀美子の両親が、わざと彼に知らせるのを遅《おく》らせたのだ。涙《なみだ》は出なかった。あまりに突然《とつぜん》の死と、葬儀《そうぎ》に出席できなかったことで、死んだという実感がまるで湧《わ》いてこなかったのだ——胸の奥《おく》にぽっかりと空白ができたような感覚を覚えるようになったのは、それから何日も経《た》ってからだ。  直純は当時まだ七歳。勇作は引き取ろうと申し入れたが、悲しみのあまりヒステリックになっていた紀美子の両親は、汚《きたな》い言葉を投げつけ、拒絶《きょぜつ》した。娘《むすめ》の死でさえ、勇作の責任と思っているようだった。  それはある意味で正しい、と勇作は思う。離婚さえしなければ、東京で暮らしてさえいれば、紀美子が死ぬことはなかっただろう——そして、離婚は彼の責任なのだ。  対立の直接原因は、勇作の趣味《しゅみ》だった。たまに息子《むすこ》のためにおもちゃを買ってくることはあるが、毎月、その何十倍もの額の金を、自分の趣味のフィギュアやアンティーク・プラモデルに注《つ》ぎこむのだ。そうした方面にまるで興味のない紀美子には、いい年をした夫が人形やロボットや怪獣《かいじゅう》にうつつを抜《ぬ》かしていたり、古くて変色したプラその箱をありがたそうに棚《たな》に積み上げているのが、どうしても理解できなかった。趣味が家計を圧迫《あっぱく》していること、増えすぎたコレクションが部屋《へや》をまるごとひとつ占拠《せんきょ》し、さらに他《ほか》の部屋にまであふれ出していることに、不快感を覚えてもいた。  破局が決定的になったのは、ある日、昇作の留守《るす》中、直純が彼の部屋に入りこみ、大事にしていたアメリカ製のフィギュアのブリスター・パックを勝手に開けて遊んでいたことだった。  帰ってきた勇作は激怒《げきど》し、思わず息子を叩《たた》いてしまった。 「何よ!? どうして怒《おこ》るの! おもちゃはもともと子供が遊ぶものでしょ!?」  泣き出した息子をかばい、紀美子は夫に非難の目を向けた。 「お前は知らないんだ! ブリスター・パックを開けたら、フィギュアの価値はがた落ちになるんだぞ! 特にこの色塗《いろぬ》りミスのアンジェラほ……」 「バカバカしい! 何でそんなもん、ありがたがるのよ!? コレクションと子供と、どっちが大事なの!」  売り言葉に買い言葉、勇作は勢いで答えてしまった。 「コレクションだ!」  翌日、紀美子は息子を連れ、家を出て行った。  勇作はわざわざ長野まで謝《あやま》りに行こうとは思わなかった。それどころか、妻の無理解にひどく腹を立てていた。考えてみれば、そもそも結婚したことが間違いだったのだ。夫の趣味を理解しない女など、妻に迎《むか》えるべきじゃなかった……。  それに、独身に戻《もど》ったことで気楽になったのも事実である。家計や妻の目を気にすることなく、思う存分、コレクションに力を入れられるようになったからだ。いつの間にか、妻や子供のことはどうでもよくなっていた。だから離婚の書類にも迷わず判を捺《お》した。そんな勇作のちゃらんぽらんな態度に、紀美子の両親が怒《いか》りを覚えるのは当然だ。  しかし、紀美子の死がきっかけで、勇作は少しずつ自分の行動を見つめ直すようになっていった。本当に自分が正しかったのか、疑問に思うようになってきたのだ。  半年が過ぎ、一年が過ぎた。胸の奥《おく》に生じた空虚《くうきょ》な感覚は、癒《いや》されるどころか、しだいに大きく、重くなって、勇作の心にのしかかってきた。新婚当時の楽しかった日々、息子が生まれた時の喜びが、何かにつけて思い出された。マンションに一人で暮らしているのが空《むな》しく感じられ、プラモの収集も以前ほど楽しくなくなってきた。  大人気《おとなげ》ないことをした、と勇作は反省した。もっと冷静に行動するべきだったのだ。確かにフィギュアのパックを開ければ価値は半減する——しかし、人間関係の亀裂《きれつ》という大問題に比べれば、少しぐらいの財産の損失がどうだというのか?  実を言えば、勇作にはひそかな夢があった。息子といっしょにプラモ造りを楽しみたい、プラモの面白《おもしろ》さを教えたい、という夢だ。妻が妊娠《にんしん》した子供が男の子だと分かった時から、その夢はずっとふくらみ続けていた。  六歳では早すぎる。カッターを持たせるのは危ないし、筆やピースコンも満足に使えないだろう。小学校三年生あたりがちょうどいい。そう、直純が三年生になったらプラモデルを買ってやろう——勇作はその日が来るのをわくわくして待っていた。  それが、あの事件で台無しになった。  今年、直純は四年生。勇作の胸には、実現しなかった夢がうずき続けていた。今からでも遅くない。息子といっしょにプラモ造りで夏休みを過ごしたい。失われた父と子の絆《きずな》を取り戻《もど》したい……。  幸い、紀美子の両親の怒りも、さすがに二年半も経《た》つといくらか薄《うす》れてきていた。今年の夏休み、久しぶりに息子といっしょに過ごしたいという勇作の願いを、しぶしぶながら承諾《しょうだく》したのだ。  一|泊《ぱく》して法事を済ませた後、勇作は息子を助手席に乗せ、東京に向かって出発した。 「やあ、こりゃまた、妙《みょう》なところに入っちまったなあ」  道に迷ったことで動揺《どうよう》しているのを悟《さと》られまいと、勇作はわざとらしくおどけた声を出してみせた。  車はどこかの町の商店街に入っていた。せめて町の名を知る手がかりはないかと、勇作は速度を落とし、左右に目を走らせた。だが、今日は休業日なのか、商店はどこもシャッターを下ろし、人通りもまばらだ。 <川口《かわぐち》薬局> とか <市村《いちむら》電器> とか <純喫茶《じゅんきっさ》かすみ> とか、どこの町にでもありそうな名前が無愛想《ぶあいそう》に並んでいるだけだ。  途中《とちゅう》で何度か道を曲がったので、もうどっちの方角に進んでいるのかも分からない。せめて太陽が出ていれば方角の見当がつくのだが、運の悪いことに、空にはどんより雲が広がってきていて、ひと雨来そうな気配だった。 「ねえ、なんかだんだん狭《せま》いとこに入ってきてない?」  直純がますます楽しそうに言った。道を探すのに懸命《けんめい》な父と違《ちが》い、何時間迷ってもゲームでいくらでも時間が潰《つぶ》せるのだから、気楽なものである。 「うーむ、参ったな……」  勇作は頭をかいた。直純の言う通り、やみくもに走り続けたのが裏目に出て、車はどんどん狭い裏道に迷いこんでゆく。今や、車一台がかろうじて通れるほどの幅《はば》しかない。表通りに戻ろうにも、狭すぎてUターンできないし、脇道《わきみち》もなかなか見つからなかった。速度を落として進み続けるしかない。  道の右側に小さな店があった。他の店はみんな休業しているのに、そこだけはシャッターを開けていた。薄汚《うすよご》れたガラス戸の奥に、プラモの箱が雑然と積み上げられているのが見える。 「へえ、こんなとこにも模型屋があるんだな」  勇作は感心した。こんな田舎町《いなかまち》の、人通りの少なそうな場所で、商売が成り立つのだろうか。  ふと気になって、車を止めてみた。もう何十年も使っていると思われる看板は、雨と排気《はいき》ガスで茶色く汚れ、端《はし》の方はペンキが剥《は》がれ落ちて腐食《ふしょく》していた。 <あおぞら模型> という文字がかろうじて読める。 「うわっ、こいつは……」  ショーウィンドウに並んだ完成品に目をやった勇作は、思わず苦笑した。タミヤの1/35タイガー戦車、ハセガワの1/72F14Aイーグルなどといった定番のキットの他《ほか》に、今ではなかなかお目にかかれない古いキットが並んでいたからだ。  円盤《えんばん》を二枚重ねにしたハンバーガーのようなメカは、モノグラムのサイロン・ベーススター——『宇宙空母ギャラクティカ』の敵、サイロン軍の母艦《ぼかん》だ。その横に立っているのっぺりしたデザインのメカは、ニットーの『SF3D』シリーズのひとつ、1/207リーダーマウス。バンダイのアンドロメダ(『さらば宇宙戦艦ヤマト』の地球防衛軍旗艦)や、タカラの1/20スケートボーイ(映画版『クラッシャー・ジョウ』の敵メカ)もディスプレイされていた。タミヤの1/35ティラノサウルスを使ったディオラマがあったが、まだ肉食|恐竜《きょうりゅう》が完璧《かんぺき》な直立二足歩行をしていたことが知られる前のキットなので、尻尾《しっぽ》を地面に付けて立っている。  勇作は自分でも気づかぬうちに車を降り、懐《なつ》かしい想《おも》いでしげしげとショーウィンドウを覗《のぞ》きこんでいた。かつて熱中していたガンプラ(ガンダムのプラモ)もいくつかあった。悪名高い最初の1/100ガンダム、グラブロ、ザク㈼マインレイヤー、アッグガイ、ゼータプラス……年代の違うキットが何の脈絡《みゃくらく》もなしに並んでいる。薄く埃《ほこり》が積もり、店の表に向いた側が光のせいでかなり退色しているところを見ると、もう十何年も前からここに陳列《ちんれつ》されているのだろうか。  さらに、いちばん下の棚《たな》の端にあった怪人《かいじん》のキットを見て、勇作はちょっとしたショックを受けた。 (『仮面ライグー』のこうもり男!? こりゃガレージキットや、最近のUFOキャッチャーの景品じゃないぞ。まさか……昔のバンダイのキットか!?)  七〇年代にたくさん発売された『仮面ライダー』などのキャラクターもののプラモデルは、現在では大変なプレミアがついている。勇作も何年か前、オールドアイテムの店で、こうもり男の未開封《みかいふう》のキットに一〇万の値がついていたのを見たことがあった。組み立て済みだとかなり価値は下がるが、それでも一万円やそこらはするはずだ。  勇作はウィンドウの前にしゃがみこみ、額をガラスに近づけて感慨《かんがい》にふけった。数百円で買える子供向けの素朴《そぼく》なプラモに、何万円もの値段がつく時代が来るなど、誠が予想しただろうか。このこうもり男は、おそらく二五年も前から、この田舎町の模型店のショーウィンドウにひっそりと立ち続けていたのだろう。時代の流れから忘れられて……。 「父さん!」  直純の声で我に返った。 「あ、ああ」勇作は慌《あわ》てて立ち上がる。「この店で道を訊《き》いてみよう。お前にも何か買ってやるぞ。来い」  勇作はアルミサッシのガラス戸(もちろん自動ドアなどではない)をがらがらと開け、店内に入った。直純もぶつぶつ言いながら車から降り、父の後に続いた。    3 プラモの宝庫  ひどく小さく、薄暗い店だった。一〇畳《じょう》ほどの広さの長方形のフロアが、二つの高い棚で分断され、Eの字の形の通路を形成している。あらゆる棚にぎっしりとプラモの箱が並べられているうえ、床《ゆか》にまで箱が積まれているので、通路は人がすれ違うのも困難なほど狭い。  店内はやけに蒸《む》し暑く、埃《ほこり》と黴《かび》の臭《にお》いが入りまじった異臭《いしゅう》が漂《ただよ》っていた。いちおうクーラーは入っているのだが、どの棚にも天井《てんじょう》近くまでプラモが積み上げられているため、空気の流れが悪いらしい。  一瞬《いっしゅん》、過去の世界にタイムスリップしたような錯覚《さっかく》を覚え、勇作はたじろいだ。彼が通い慣れた近所の模型店とは、あまりにも雰囲気《ふんいき》が違っていたからだ。流行の美少女ソフビ・フィギュアは見当たらないし、ガレージキットも置いていない。こんな時代|錯誤《さくご》な店が九〇年代の日本に存在するとは、とても信じられなかった。  だが、入口近くにミニ四駆《よんく》や『エヴァンゲリオン』のシリーズが積み上げられているところを見ると、確かに現代のようだ。  カウンターは店のいちばん奥《おく》にあった。店番をしているのは、頭の真っ白な老人が一人だけだ。虫眼鏡《むしめがね》を片手に新聞を読んでいる。耳が遠いせいか、勇作たちが入ってきたのにも気がついた様子はない。 「待っててくれ。どこかそのへんで——」勇作は棚に並んでいるプラモを指差した。「好きなやつを選んでなさい」  直純は言われた通り、通路にしゃがみこんでプラモを物色しはじめた。勇作は積み上げられた箱を崩《くず》さないように注意しながら、カウンターに近づいていった。 「あの……すみません」  声をかけると、老人はやけにスローモーな動作で顔を上げた。九〇歳ぐらいだろうか。顔じゅう深い皺《しわ》だらけで、表情は読みにくい。背中は大きく曲がり、腕《うで》は枯《か》れ枝《えだ》のようだ。 「ああ……いらっしゃい……」  老人はひどくかすれた小さな声で、のろのろと言った。プラスチックを紙やすりでこすったような声だな、と勇作は思った。言葉をひとつ発するのにも苦労している様子だ。 「ええと……中央自動車道に出たいんですけど、どう行けばいいんでしょう?」 「ちゅうおう……う」  老人は耳に手を当てて訊《き》き返した。 「中央・自動車・道です」勇作は大きな声で辛抱強《しんぼうづよ》く繰《く》り返した。「高速道路。分かりますか?」 「ああ、高速ね……」 「はい」 「駅を越《こ》えて、もっと向こうじゃわ……」 「駅?」 「国鉄の駅……」 「ああ、JRね」  勇作はだんだん苛立《いらだ》ってきた。訊《たず》ねる相手を間違《まちが》えたようだ。この調子では、中央自動車道のインターまでの道を訊き出すのに、何時間かかるか分からない。 「その駅は近いんですか?」 「ああ……近いよ」 「何分ぐらいかかります?」 「なんぷん……?」 「その駅まで、車で何分ぐらいかかります?」 「ああ〜、車なら……」老人はごほごほと咳《せき》をして、片手を広げてみせた。 「五分?」  老人はうなずいた。  意外に近いようだ。それなら、駅で駅員に道を訊ねた方が早いだろう。 「駅にはどう行くんですか?」 「この道を……」老人は震《ふる》える指でウィンドウの外を指差した。「まあっすぐ行って、電柱のところで右……」 「電柱で右、ですね?」 「そう……そこから、またまあっすぐ行ったら、大きな通りに出る……角にうどん屋がある……そこを左に行くと駅じゃ……」 「分かりました。ありがとうございます」  一礼してから、勇作はあらためて店内を見回した。  それにしても、こんな店がまだ生き残っていたとは驚《おどろ》きだ。近年、子供の数が少なくなったせいで、プラモデルは昔ほど売れなくなっている。八〇年代前半のガンプラ・ブームが過ぎると、おもに子供たちを商売相手にしていた小さな模型店は経営危機に立たされ、ばたばた潰《つぶ》れてしまった。メーカーや模型店は、高年齢層《こうねんれいそう》のマニアにターゲットをシフトしたり、フィギュアやゲームなど、プラモ以外の多角的な展開を模索《もさく》することで、どうにか生き残ってきた。  そう、こんな田舎町《いなかまち》の裏通りにあって、マニアが決して足を運びそうにない小さな店が、今まで存続してきたのは、ほとんど奇跡《きせき》と言えるかもしない…。 「ん?」  勇作は棚《たな》の上の方に積まれていた箱のひとつに興味をそそられた—— <マックスカー> という文字が目についたからだ。 (そんな……まさか……?」  そう思いながら手を伸《の》ばし、古ぼけて変色した箱を引っ張り出した。最初は信じられなかったが、手に取ってボックスアートをじっくり見ると、疑念は確信に変わった。  滑走路《かっそうろ》に着陸している黄色い超《ちょう》音速|爆撃機《ばくげきき》を背景に、二機のターボジェットエンジンを剥《む》き出しで搭載した奇妙な形の自動車が描かれている。緑色の自動車は底部からロケットを噴射して浮上《ふじょう》し、車輪を折り畳《たた》み、可変翼《かへんよく》を開いて、今まさに空に飛び上がろうとしていた。箱の隅《すみ》にはタミヤの星マーク……。  間違いない。名イラストレーター・小松崎《こまつざき》茂《しげる》の筆による絵だ。 (本物だ!)  勇作は息が止まるほどの衝撃《しょうげき》を受けた。タミヤのマックスカー・電動タイプ——イギリス製の特撮《とくさつ》TVドラマ『ジョー90』に登場したメカで、日本では一九六九年にキット化された。今でこそミニ四駆《よんく》で有名な田宮《たみや》模型だが、当時は戦車や飛行機などのスケールモデルを主流にしており、こうしたキャラクターモデルは珍《めずら》しい。モーターで車輪が駆動するばかりか、番組内の設定と同様、飛行形態にも変形可能なのだ。車軸《しゃじく》の変形機構が難しく、当時、完成させた子供は一人もいないという伝説がある。  アンティーク・トイ市場にもめったに出回らない珍品《ちんぴん》で、勇作も実物を目にするのは初めてだった。番組は『サンダーバード』を手がけたジェリー&シルビア・アンダーソンの作品だから、マニアの人気も高い。いったい何万円、何十万円のプレミアがつくのか、見当もつかない。  それがこんな店にあったとは。 (すごい……すごいぞ、これは……)  興奮のあまり震《ふる》える手で、勇作は箱を開け、中を確認《かくにん》した。成形色はグリーン。ビニール袋《ぶくろ》は未開封《みかいふう》。さすがに接着剤《せっちゃくざい》のチューブはかちかちになっているが、ギアボックスには錆《さび》ひとつない。理想的な保存状態だ。 (こんなものが眠《ねむ》っていたなんて……!)  これまでの四三年の人生で、勇作はこれほどの興奮を体験したことはなかった。偶然《ぐうぜん》に立ち寄った店で、とてつもない宝物を掘《ほ》り当ててしまったのだ。天にも昇《のぽ》る心境、というのはこのことだ。  だが、それはほんの序の口にすぎなかった。  ふと顔を上げた勇作の目に、別の文字が飛びこんできた—— <ロケット戦車> 。 (ええっ!?)  慌《あわ》ててマックスカーを元《もど》に戻《もど》し、その箱を引っ張り出した。横倒《よこだお》しになったロケットの下にキャタピラが付いた、ユニークなデザインのメカが描かれているではないか。  ミドリのロケット戦車——一九六八年、映画『ガンマ第3号・宇宙大作戦』の公開当時に発売されていたキットだ。もちろん、とっくの昔に絶版である。のちに箱を変えて再版されたものが、オールドアイテムの店で四万円で売られていた。初版ならもっと高いだろう。  勇作はちらっとカウンタ1の方に目をやった。老人はまったく興味なさそうに新聞を読んでいる。こんなレアアイテムを他《ほか》の平凡《へいぼん》なキットといっしょに並べるとは……価値に気がついていないのだろうか? (ひょっとして、まだ他にも……?)  勇作は夢中になって、積み上げられたプラその山を物色しはじめた。どうやら店主にはプラそやメカに関する知識があまりないらしい。おおよそ棚《たな》ごとにジャンル別に分けられてはいるものの、メーカーも発売時期もばらばらのキットが、スケールモデルもキャラクターモデルもごちゃ混ぜで、同じ棚の中に詰《つ》めこまれていた。  無論、たいして価値のないプラモ、どんな店でも手に入るようなプラモがほとんどだった。しかし、それらに混ざって、レアな絶版キットがたくさん埋《う》もれているではないか。  戦車キットの棚には、タミヤの1/35戦車シリーズなどの間に、なぜかミドリのキングモグラスや、アオシマのサンダーキャプテンといった、オリジナルのSF戦車がはさまっていた。  店の入口近くには、ロボットものを集めた一画があった。最近のガンダム・シリーズの新作キットや、バンダイのメカコレクヨンの再版がほとんどだったが、古いロボット・プラモもいろいろ見つかった。タカラの『装甲騎兵《そうこうきへい》ボトムズ』シリーズ、グンゼの1/100カングライド・マヤール(『特装機兵ドルバック』の敵メカ)、イマイのマッハバロン、アオシマのアトランジャー、バンダイのハリハリ、マルイのアーマードウォーカー、ニットーのオモロイド……。  中には、かなりのマニアを自負する勇作でさえ、見覚えのないキットがあった。たとえばバンダイのテクノボイジャー1号・2号・3号は、カタログでしか見たことがない。イマイの1/72エクスキャリバーも同様だ。『超攻速《ちょうこうそく》ガルビオン』の敵メカだが、番組自体がマイナーなので、記憶《きおく》があいまいだ。 「こんなの発売されてたっけ……?」勇作はつぶやき、首をかしげた。「よほど数が少なかったのかな……」  後になって考えてみれば、このあたりで何か変だと気がつかなければならなかったはずだ。だが、驚《おどろ》くべき発見の連続にすっかり躁《そう》状態になっていた勇作には、冷静に考えているゆとりがなかった。  怪獣《かいじゅう》ものの棚の奥《おく》から、ニットーのゼンマイで動く大巨獣《だいきょじゅう》ガッパや、マルサンの電動怪獣シリーズのエビラが出てきた時には、卒倒《そっとう》しそうになった。  さらに、雑然と積み上げられた箱の山を探すと、過去からタイムスリップしてきたとしか思えないレアアイテムが、次から次に現われた。『スペクトルマン』のボントトルエカ、『巨人の惑星《わくせい》』のスピンドリフト号、『タイムトンネル』……子供の頃《ころ》に欲《ほ》しかったが、高すぎて手の出なかった『サンダーバード』の特大ゼロX号(一二〇〇円)もあった。  このあたりになると、驚きが続きすぎて、勇作の感覚も麻痺《まひ》してきていた。 <ROCKET TO THE MOON> と書かれたアメリカ製のロケットのキットが出てきても、もうあまり驚かなくなっていた。箱絵には尾部《びぶ》から着陸|脚《きゃく》を出して直立している美しい流線形のロケットが描《えが》かれ、下の方には <Strombecer> と書かれている。  しかし、さすがにびっくりしたのは、潜水艦《せんすいかん》ものの棚《たな》から、『007/サンダーボール作戦』の水中戦車、『マイティジャック』のハイドロジェット、『海底大戦争』のメカニカルフィッシュ、『海底少年マリン』のP1—0号、『原潜シービュー号』などに混じって、 <ブルーサブ6コーバック2世号> と書かれた幅《はば》三〇センチほどの箱が出てきたことだった。 (コーバック号の大型キット! こんなのがあったのか!?)  だが、間違《まちが》いない。箱絵には流線形のミサイルのような形をした黒い潜水艦が描かれている。艦尾からX字型に張り出した四枚の尾翼《びよく》。右下のサインの部分に版権表示のシールが貼《は》られているが、タッチからすると、これも小松崎茂の絵のようだ。  コーバック号——それは一九六七年に『少年サンデー』に連載《れんさい》されていた小沢《おざわ》さとるの漫画《まんが》『青の6号』に登場するメカである。海の平和を守る国際機関「青」と、秘密結社「マックス」の戦いを描く物語で、勇作は毎週、むさぼるように読んでいた。「青」には六|隻《せき》の潜水艦が所属しており、コーバック号は青の1号である。最初のコーバック号は岩壁《がんぺき》に激突《げきとつ》して沈没《ちんぼつ》したが、のちに同型の2世号が登場した。  当時、イマイから <ブルーサブ6> シリーズとして発売されていたのだが、小型潜水|艇《てい》フリッパーや、青の3号マラコット号、マックスの潜水艦ムスカのキットは出ていたのに、主役メカであるはずの青の6号くろしお号は、なぜかついに発売されなかった。  しかし、それよりも勇作が残念だったのは、「青」の潜水艦の中でいちばんかっこいいコーバック号が、五〇円の、ミニ・キデルでしか発売されなかったことだ。プロポーションは良かったものの、全長一〇センチほどのちっぽけなモデルでは、どうにも不満だった。あの頃《ころ》、三〇センチ級のコーバック号の発売を待ち望んでいた少年は、勇作以外にも日本中に何万人もいたはずだ。  だが、それが実在したとは……。  勇作は箱を開けてみた。やはりビニール袋《ぶくろ》は未開封《みかいふう》だ。全長は三〇センチ弱、尾翼がやや大きい以外、プロポーションはほぼ原作通りである。成形色はダークブルーで、、セイルに貼《は》る白い <1> のデカール(当時は「転写マーク」と言った)が付属していた。動力用のゴム紐《ひも》はすっかり変質しているが、たいした問題ではない。  説明書の完成図を見ると、原作と違って艦尾から大きなスクリューが突出《とっしゅつ》しているが、これは構造上しかたのない改変だろう。2世号ということで、尾翼の先の補助推進器ポッドはダミーである。その代わり、ポッドにはスプリング・ギミックが内蔵され、つまようじのように細いロケットを装填《そうてん》できるようになっている。艦首が何かに突《つ》き当たると、後方に四発のロケットが発射される仕組みだ。  まさに子供の頃に夢見た通りのキットだ。 (この店は宝の山だぞ!)  勇作は頭の中で、これまでに発見した絶版キットの市場での相場を推定し、合計してみた。どう考えても一〇〇万は軽く超《こ》える。しかも、一五分かそこら探しただけでこれだけの収穫《しゅうかく》があったのだから、まだまだ店の奥《おく》にはレアなキットが眠《ねむ》っている可能性が高い。  問題は値段だが……。 「あのう……」  勇作はコーバック号の箱を差し出し、恐《おそ》る恐る店主に訊《たず》ねた。 「これ、おいくら……ですか?」  店主はちらっと顔を上げ、面倒臭《めんどうくさ》そうに言った。 「書いてあるじゃろ……箱の横に」 「はあ?」  勇作は箱の側面を見て、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ—— <300円> 。  当時の定価のままだ。ということは、あのゼロX号も一二〇〇円で買えるのだろう。この店にある貴重な絶版キットをすべて買い占《し》めるのに、五万円もあれば充分《じゅうぶん》なはずだ。勇作は慌《あわ》てて尻《しり》ポケットから財布《さいふ》を取り出した。  だが、中を覗《のぞ》いて愕然《がくぜん》となった——千円札が一枚、百円玉が一個、十円玉が六個……。  彼はたいていの買い物をカードで済ませ、現金はなるべく持ち歩かない主義だった。高速料金もカードで支払《しはら》うのだ。  そう、確か昨日、紀美子の実家に向かう途中《とちゅう》、何も土産《みやげ》を持っていなかったのに気がついて、目についたケーキ屋でチーズケーキを買ったんだった……。 「あ、あの、この店、VISAは……?」  老人のきょとんとした表情を見て、勇作は言葉を飲みこんだ。  訊ねるまでもない。 「じゃ……じゃあ、このあたりに銀行はありませんか? 銀行。お金を下ろせるところ」 「銀行なら……」老人はひとつ咳《せき》をしてから言った。「……駅の前にあるよ」 「駅の前ですね!」  そう言うなり、勇作は身をひるがえし、早足で店の外に向かった。 「ねえ、父さん……?」  ロボットのプラモを物色していた直純が、振《ふ》り返り、不思議そうに声をかけた。 「一〇分で戻《もど》る! お前は自分の買うものを決めておきなさい!」  そう言うと、勇作は車に乗りこみ、勢いよく発進させた。  老人の言った通り、電柱のある角で右に曲がり、住宅の間をくねくねと続く細い道を抜《ぬ》けると、広い通りに出た。うどん屋のある角で左に曲がると、そこからJRの駅まではほぼ一直線だった。  駅前には確かに銀行があった。勇作はその前に車を止めると、キャッシュコーナーに飛びこんだ。現金自動支払機にカードを入れ、震《ふる》える指で暗証番号を打ちこむ。  五万? いや、念のために一〇万ぐらい引き出しておこう。いやいや、多いに越《こ》したことはない。二〇万にしよう……。  札が吐《は》き出されるまでの時間が、途方もなく長く感じられた。「早く、早く……」勇作は小声でつぶやきながら、無意識のうちに足踏《あしぶ》みをしていた。やがて蓋《ふた》が開いて札束が出てくると、急いでひっつかみ、尻《しり》ポケットにねじこみながら車に駆《か》け戻った。  模型店に戻る途中の道で、勇作はふと、カーナビに目をやった。 「ん?」  いつの間にかカーナビが正常に機能している。赤い三角印は、ちゃんと地図上の道路の上を進んでいた。勇作は深く考えることをしなかった。今はあの店に帰ることが先決だ。  うどん屋のある角で右に曲がり、脇道《わきみち》に入った。民家の合間の狭《せま》い路地を、車は走り抜けてゆく……。  二分ほど走ったところで異常に気がつき、勇作は車を止めた。  おかしい——とっくに通り過ぎているはずなのに、目印の電柱がどこにもなかった。見落としたのだろうか?  車をUターンさせ、同じ道をもう一度走った。道の右側に注目し、何も見落とすまいとする。必ずあるはずだ。角に電柱のある路地が確かに……。  しかし、車はうどん屋のところまで戻ってきてしまった。 「おかしいぞ……」勇作は不安を覚え、自分に言い聞かせるためにつぶやいた。「電柱が消えてなくなるわけないじゃないか。いくら木の電柱でも……」  木の電柱!?  それに気づいたとたん、勇作の顔から血の気が引いた。興奮していたため気にならなかったが、あの電柱はコンクリートではなかった。  木製の電柱なんて、今どきあるんだろうか? (早く……早く戻らないと、直純が待っている……)  勇作のあせりは不安に変わり、しだいに恐怖《きょうふ》に変わっていった。同じ道を何度往復しても、電柱は見当たらない。道を間違《まちが》えたのかと、あたりをぐるぐる回ってみたり、それらしい路地に片っぱしから入ってみたが、どうしてもあの模型店は発見できなかった。どの道をどう通ってあの店にたどり着いたのかも思い出せない。  電話ボックスに飛びこみ、備えつけの電話帳で <あおぞら模型> を探してみたが、載《の》っていなかった。104の番号案内で訊《たず》ねても、交番で訊ねても、結果は同じだった。  勇作は絶望を覚えた。  一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、三時間が過ぎた。夏の陽《ひ》が落ち、あたりが暗くなっても、勇作は狂《くる》ったように事を走らせ続けた。どこかにあるはずだ。この町のどこかに、あの不思議な模型店が……。  だが、深夜まで探し続けても、ついに <あおぞら模型> は見つからなかった。    4 コレクターの伝説 「……これで全部です」  体験談を話し終え、勇作は長いため息をついた。 「昨日、もう一度あの町に戻って、通りという通りを走ってみました。でも、やっぱり <あおぞら模型> は見つからないんです……念のために、紀美子の実家にも何度か電話を入れましたが、やっぱり直純は帰っていないようです。私が直純を電話口に出さないことで、不審《ふしん》に思っているようでした。もちろん、東京のマンションにも来ていないし、留守電《るすでん》にメッセージも入ってない……」 「警察に捜索願《そうさくねが》いは?」とかなた。 「言えるわけないでしょう? 言ったって、信じてもらえるわけがない。それに、これは警察の力でどうにかなる問題じゃない……」  勇作は弱々しく笑った。深い絶望の果ての笑いだった。 「私よりも詳《くわ》しいマニアの友人に電話して、確認《かくにん》しました。私の話を聞いて笑ってましたよ。イマイの <ブルーサブ6> シリーズは、ミニ・サイズのコーバック号、マラコット号、フリッパー1号と2号、それにムスカ1号と2号の六種類しか出ていない。三〇センチ・サイズのコーバック号なんて、フルスクラッチかガレージキットでもなけりゃ、この世に存在するはずがない——って言うんです。  私が見た他《ほか》のキットもそうです。『ガルビオン』のエクスキャリバーは、発売予定にはあったものの、番組が打ち切られたために発売されなかったんです。ストロンベッカー社のロケットにしても、調べてみたら、僕《ぼく》が見たボックスアートは一九五六年に出た初版のものでした。アメリカのコレクターの間でも幻《まぼろし》のキットとされている代物《しろもの》で、そんなもんが日本の田舎町《いなかまち》の模型店に眠《ねむ》っているなんてありえないんです。  そう、あんな店はありえないんです——地上のどこにも存在しないんですよ!」  興奮した勇作は、また泣きだした。テーブルに肘《ひじ》をつき、頭を抱《かか》える。 「なんて……なんてバカなことをしたんだろう。せめて、あの子といっしょに店を出るべきだった。大好きなプラモのことで頭がいっぱいになってて、息子《むすこ》のことなんかどうでもよくなっていた……あの日と同じ間違《まちが》いをまたやっちまった……家族よりもコレクションを優先させて……妻に続いて、息子も失うなんて……」  子供のように泣きじゃくる男を見下ろしながら、かなたは冷静に考えをめぐらせていた。  彼の話が事実なら、これが妖怪《ようかい》がらみの事件であることは間違いない。おそらく、その <あおぞら模型> という店は、この <うさぎの穴> と同じく、隠《かく》れ里《ざと》なのだろう。  隠れ里というのは、妖怪たちが棲《す》み家《か》としている異空間の総称《そうしょう》だ。そこに存在するはずのない空間——存在しないのだから、普通《ふつう》の人間の目には見えないし、足を踏《ふ》み入れることもできない。そこに入るためには、ある決まった条件を満たさなくてはならないのだ。勇作は最初、その条件を満たしていたから、 <あおぞら模型> に行くことができたのだろう。カーナビの故障はその前兆ど考えられる。二度目以降は条件を満たしていなかった。だから、いくら探しても見つからない……。  だが、その条件とは何だろう? 「ねえ、父さん、あの本ある?」  かなたは振《ふ》り返り、カウンターの向こうにいた父に声をかけた。 「あの本?」 「『チョッコレートは森永《もりなが》』」 「ああ、あれか」  松五郎《まつごろう》はいったん店の奥《おく》に引っこむと、その奇妙《きみょう》な題名の本を持って戻ってきた。副題は <若者たちのフォークロア> ——現代の若者の間で実話として信じられ、流布《るふ》している物語を集めたものだ。  表題になっているのは、森永製菓の面接試験を受けに行った学生の話だ。試験官に「わが社のCMソングを歌ってみなさい」と言われたその学生は、即座《そくざ》に歌いはじめるが、途中《とちゅう》でそれが明治《めいじ》製菓のCMソングだと気がつき、慌《あわ》てて最後だけ「……チョコレートは森永」と言い換《か》える。  同じパターンで、ナショナルの面接試験で東芝《とうしば》のCMソングを歌ってしまう学生の話、試験官の「前進しなさい」という指示を「変身しなさい」と聞き間違え、「へんし〜ん」と仮面ライダーの変身ポーズをやってしまう学生の話なども収録されている。  もちろん、そんなことがあるわけがない。面接試験でCMソングを歌わせる会社などないだろうし、いくら緊張していても「前進」と「変身」を聞き間違える奴《やつ》がいるとは思えない。「そんな話が本当にあった」と信じられてはいるが、真偽《しんぎ》は誰《だれ》も知らないのだ。 「ええっと、確かこの本の中に、そっくりな話があった気が……」  かなたはページをめくっていった。 「ああ、あった。これね」  勇作は涙《なみだ》をぬぐい、かなたの差し出した本の文章に目を通した。 [#ここから1字下げ]  [まぼろしの模型店]  これは模型マニアの知合いから聞いた話です。  その人の友達の中学生の息子さんが、自転車旅行の途中《とちゅう》、ある地方都市で、裏通りの小さな模型店にふらりと入ったんだそうです。店番をしていたのは、すごく高齢《こうれい》のおじいさんが一人だけでした。時代|遅《おく》れの古いプラモばかりだったし、お金もあまり持っていなかったので、その子は何も買わずに店を出たそうです。  帰ってきた息子さんから話を聞いて、その人はびっくりしました。息子さんが見たものは、今では大変な高値がついている貴重な絶版プラモばかりだったんです。その人は大金を財布《さいふ》に入れて、息子さんに案内させてそのお店を探しに行きました。でも、息子さんの記憶《きおく》はあいまいで、二度とその店を見つけることはできなかったそうです。 [#ここで字下げ終わり]  勇作は驚《おどろ》いて顔を上げた。 「私と同じ体験をした人がいるんだ——じゃあ、あの店はやっぱり本当に……?」 「さあ、どうかな」かなたはかわいらしく首をかしげた。「本当にあった話かどうかは分かんないよ。『友達の友達』ってとこが、いかにも典型的な都市伝説だしね。ただ、重要なのは、この話が本当にあったと信じてる人——こんな店が実在して欲《ほ》しいと願っている人が、たぶん日本中に大勢いるってこと」  かなたはプラそのことはあまり詳《くわ》しくない。しかし、そうしたマニアにとって、古い絶版プラモに大きな価値があることは理解できる。どこかの田舎町《いなかまち》の模型店に眠《ねむ》っている(はずの)絶版プラモを手に入れたい——その夢や妄想《もうそう》が実体化して、 <あおぞら模型> を生み出したのだろう。 「だったら、どうすれば……?」 「簡単だよ」 「え?」 「簡単だよ、その店にもう一度行く方法は。おじさんが気がついてないだけ」かなたは微笑《ほほえ》み、本のページをとんとんと叩《たた》いた。「この本に書いてあることと、あなたの体験——二つを重ね合わせたら、おのずと見えてくるじゃない。その店に行くための条件がさ」 「……?」  勇作にはまだ納得《なっとく》が行かなかった。 「あ、これはあなたが持ってなくちゃ。必要だもんね」  かなたはそう言って、テーブルの上に置きっ放しになっていた預金通帳と印鑑《いんかん》を、勇作の手許《てもと》に押《お》し戻《もど》した。 「家に帰ってひと眠りして、明日の——というか、今日の朝一番に、その町にもういっぺん行ってみるといいよ。あたしの言う通りにすれば、うまく行くはずだから。試《ため》してごらんよ、騙《だま》されたと思ってさ」 「教えてください、今すぐ!」  勇作は身を乗り出した。かなたにつかみかからんばかりの勢いだ。 「これからすぐ、あの町に行って——」 「ああ、だめだめ」かなたは軽く受け流した。「ろくに寝《ね》てないんでしょ? 睡眠《すいみん》不足で運転して、事放ったら何にもならないじゃない。それに、今から行ったって、銀行は開いてないだろうし」 「銀行?」 「そう、それから……」かなたはいたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。「ちゃんと無精髭《ぶしょうひげ》は剃《そ》って、ばりっとした格好《かっこう》しなくちゃ。息子さんを迎《むか》えに行くんだからさ」    5 真の価値  翌日・午後一時—— (本当にこんな方法でうまく行くんだろうか……?)  かなたの指示には従ったものの、勇作は不安だった。あんなに探し回って見つからなかった <あおぞら模型> が、こんなおまじないみたいなことをしただけで見つかるなんて、とても信じられない。  だが、他のすべての希望が失われた今、この方法に頼《たよ》るしかない。  不安は杞憂《きゆう》だった。駅前から道を逆にたどってゆくと、あっけないほど簡単に、あの木製の電柱が見つかったのだ。ただちにハンドルを左に切り、路地に車を入れる。  一〇〇メートルも走らないうちに、 <あおぞら模型> の前に着いた。 「直純!」  車から転がるように降り、勇作は店に飛びこんだ。プラモの箱を手に立っていた直純が振り返り、不思議そうな顔で父親を見る。 「何やってたんだよ、父さん」直純は口をとがらせて文句を言った。「三〇分もどこぶらついてたの?」  勇作はあっけにとられた。「……三〇分?」 「そうだよ、一〇分で戻《もど》るって言ったくせに」  信じられなかった。だが、事実のようだ。直純は三日前に最後に見た姿と同じで、少しもやつれていない。時間が三日も経《た》っていることに気づいていないのだ。  この店の中では、時間の流れが外界とは違《ちが》っているらしい。 「道に迷ってたの?」 「ま……まあ、そんなところだ」  勇作はごまかした。詳《くわ》しい説明をしている余裕《よゆう》はない。今は一刻も早く、この店から外に出たい。 「さあ早く帰ろう」 「えーっ!? プラモ買ってくれるって言ったじゃない?」 「いや、それは……」  東京に帰って別の店で——と言いかけて、勇作はためらった。強引《ごういん》に息子を連れ出そうとすれば、かえって厄介《やっかい》なことになりそうな気がしたのだ。せっかく再会できたのに、こんなところで親子喧嘩《おやこげんか》はしたくない。 「分かった、買ってやる。何がいい?」 「これがいいな」  直純が差し出した箱を見て、勇作は困惑《こんわく》した。三連|装《そう》ガトリング砲《ほう》をかまえた青いモビルスーツが描《えが》かれている。バンダイのMS—07B3ダフカスタム——つい最近、発売されたばかりのキットだ。 「これが……いいのか?」 「うん」 「どうして?」 「この前、ビデオで見たんだ。すごくかっこよかったから」  勇作はさすがにためらった。この店には高価なレアキットがあふれているというのに、何もわざわざ、他《ほか》の店でいくらでも手に入るキットを買わなくても……。 「えーと……他のにしないか?」 「たとえば?」 「そうだな、えーと、たとえば……」  勇作は息子の手を引き、店の奥《おく》に連れて行った。カウンターの前の棚《たな》にあるマックスカーを引っ張り出す。 「こんなのはどうだ?」  だが、直純は、一瞥《いちべつ》しただけで、まったく興味を示さなかった。 「嫌《いや》だよ、そんな古いの。僕《ぼく》はこっちの方がいい」 「いや、しかし、これはだな……」  勇作は口ごもった。平成《へいせい》生まれで、もちろん『ジョー90』など知らない子供に、どうすればこのキットの価値を理解させることができるのか……?  その時、まるで彼の思考を読んだかのように、主人が口を開いた。 「……子供さんに選ばせなさい」 「はあ?」  振り返ると、老人はにこにこと笑いながらうなずいた。 「子供が自分で選んだプラモデル……それがいちばんいいプラモデルじゃよ」  勇作ははっとなった。  買いたいキットはたくさんある。マックスカー、ロケット戦車、ゼロX号、シービュー号……どれもみんな欲しい。だが、それは自分が欲しい。息子の欲しいキットではない。  彼は子供の頃《ころ》、『サンダーバード』や『青の6号』に熱中した。そこに登場するメカの数々は、確かにかっこよかった。しかし、その思い入れは、その時代をリアルタイムに生きた世代のものなのだ。現代の子供たちは、現代の番組、現代の漫画《まんが》に、自分たちの世代のかっこよさを見出《みいだ》している。彼らに自分たちの価値観を押しつけようとするのは、大人《おとな》のエゴだ。  ノスタルジーは人間として当然の感情だ。子供の頃に買えなかったプラそ、遊んでいて壊《こわ》してしまったプラモを、大人になってもう一度欲しいと願うのは、何もおかしなことではない。  だが、それがいつのまにか本末転倒《ほんまつてんとう》してしまった。作って遊ぶというプラモ本来の目的が失われ、キットを組み立てずに保存することに価値があるという、おかしな風潮ができてしまった。レアな絶版キットが市場で高値を呼び、コレクターはそれを買いあさる——子供たちのために作られたはずのプラモが、大人たちの投機の対象になっているのだ。  子供たちが自分で選び、自分で作って遊ぶことが、プラモ本来の楽しみ方ではなかったのか。 「……分かりました」  勇作は考えた末、グフカスタムの箱を主人に差し出した。 「これ、いただきます——八〇〇円ですね?」  そう言いながら、勇作は財布《さいふ》を取り出した。 「……あんたは要《い》らんのかね?」 「は?」 「あんたの欲しいプラモデルは、ないのかね……?」 「は……はあ」  勇作は悲しい顔で財布の中を見下ろした。  一一六〇円——三日前、この店に来た時と同じ額しか入っていない。残りは駅前の銀行で入金してきたのだ。八〇〇円のグフカスタムを買ったら、三六〇円しか残らない。  多額の現金を所持していないこと——それが <あおぞら模型> に来るための条件だったのだ。なぜなら、この店のプラモデルはすべて、真にそれを欲しいと願う者のために存在するのであり、決してコレクターの投機の対象ではないのだ。この店で絶版キットを買いあさることは、誰《だれ》にもできないのだ。 「そうですね……」  勇作は少し店内を見回してから、ある決意をした。潜水艦《せんすいかん》キットの棚《たな》に歩み寄り、迷うことなく、ひとつの箱を引っ張り出す。 「これ、いただきます」  彼は微笑《ほほえ》みを浮《う》かべながら、箱を主人に渡《わた》した。三〇センチ・サイズのコーバック号——現実には存在しなかった夢のキットだ。 「本当に欲しかったんです。子供の頃《ころ》……いや、今も」  老人は満足そうにうなずきながら、震《ふる》える指でぼつりぼつりと旧式のレジを叩《たた》いた。チーンという音がして、レシートが吐《は》き出される。 「……二〇〇円」  消費税はつかないらしい。勇作は素直《すなお》に金を払《はら》った。老人はグフカスタムの箱にコーバック号の箱を重ね、のろのろした動作で包装紙を巻きはじめた。  その作業を待つ間、勇作は息子の肩《かた》に手をやっていた。自分のミスで、直純は夏休みの三日間を失ってしまった。小学生の夏休みの三日間は貴重だ。その埋《う》め合《あ》わせはたっぷりしてやらねばならない。 「なあ、直純。この潜水艦はな、本当に水の中で走らせることができるんだぞ」 「へえ?」直純は少し興味をそそられた。 「明日にでも作っていっしょにお風呂《ふろ》で遊ぼう」 「いっしょに? 僕が触っても怒《おこ》らない?」 「ああ」  やがて老人は包装紙を巻き終わり、テープで留めた。 「はい……どうもありがとう」 「こちらこそ」  老人が差し出した箱を受け取ると、勇作は深く頭を下げた。それから、息子の手をしっかり握《にぎ》り、自信を取り戻した力強い足取りで、店の外へ出て行った。  父と子の夏休みを取り戻すために。 [#改ページ] [#ここから5字下げ]  そう、まっすぐ行けばいいんです。そうすれば、もとの大きな通りに戻《もど》れます。  でも……こっちの道でも大丈夫《だいじょうぶ》なのじゃないかな?  また、つい曲がってしまいました。大丈夫、時間には余裕《よゆう》があります。目の前に角があるのに、まっすぐに進んでしまっては、曲がり道さんに失礼というものじゃないですか。  曲がり角というのは不思議なものですよね。いきなり、それまでとまるっきり違《ちが》った光景が、目の前に広がったりもするのですから。  ほら、ビルとビルの合間に、思ってもみなかった緑あふれる空間が。  公園です。静かで落ち着いた雰囲気《ふんいき》。ベンチもありますね。  少し座《すわ》りましょう。ほっと一息ついて、疲《つか》れきった脚《あし》を休ませれば、ふたたび迷《まよ》い続ける気力も湧《わ》いてくるというものです。  もちろん、曲がり角の先に、いいことが待ち受けているとは限りません。ものかげから、突然《とつぜん》、まぶしい光のもとへほうり出されて、自分がどこにいるのか、わからなくなることもありますからね。  いきなり刺激《しげき》を受けて、目をくらまされるばかりじゃありません。  それまで与《あた》えられ続けていたものが途切《とぎ》れることで、我を失ってしまうことだってあります。  騒音《そうおん》がふっと途切れた静寂《せいじゃく》の瞬間《しゅんかん》。  絶え間ない刺激に我が身をさらし続けることで、なんせか維持《いじ》していた緊張《きんちょう》がとかれた時。  いろんなものを見失ってしまうことも、あります。  ……どこへ行こうとしていたんでしたっげ。  ……わたしはいったい、誰《だれ》なんでしたっけ。  ああ、いけない。さあ、落ち着いて、落ち着いて……。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第二話  虚無に舞う言の葉  友野詳   1.公園にて   2.事件の報らせ   3.ふたたび公園にて   4.フライディ・ナイト、Aパート   5.虚無   6.フライディ・ナイト、Bパート   7.命名 [#改ページ]    1 公園にて  公園は、築後十三年のマンションの裏手にあった。平凡《へいぼん》な公園。特徴《とくちょう》と言えば、いちょうの並木くらい。  大きな通りからはほどよく遠く、やかましく思えることもないし、完全に静かにもなれきることはない。  都市には、ときおり、そんな空間が存在する。  オアシスなどというほど、たいしたものでもない。ほんのちょっとした、安らぎの隙間《すきま》。  忙《いそが》しい午後に、ふと窓の外を見あげ、手を止めて煙草《たばこ》に火をつける。まとわりつく日常を泳ぎぬくための、息つぎ。雲が流れる。  そんな時、そんな空間。  相藤《そうどう》喬一《きょういち》は、ベンチの一つに、大きく足を広げて座《すわ》っていた。  営業マンには、たまにこういう時間が訪《おとず》れる。次の約束まで三十分。大学を卒業し、就職して一年。仕事には早々と馴《な》れたが、こういう時にどうやって時間をつぶすかには、まだ馴れない。  ピースを、足もとにほうり捨てようとして、彼は躊躇《ちゅうちょ》した。  彼が住んでいるのは、ここから徒歩五分のアパート。  近くに住んでいる老女が、毎朝、ゴミを拾い集めたり、竹ほうきをかけたりする光景を、出勤時に目にしている。日曜日、出かける時に、マンションの住人たちが掃除《そ,つ…し》をするのを見かけたこともある。  それに、落ち葉。いちょう並木は、この公園の名物だ。毎朝の掃除でも、おいつかないくらいに、黄色く染まった葉が落ちる。いちょうの他《ほか》にも何本かの木。みんな落葉樹だ。  まさかとは思うけれど、火事でも起きたら寝覚《ねざ》めが悪い。  相藤は、あたりを見回した。  ごみ箱がある。  そこから空《あ》き缶《かん》をひとつ拾いあげ、吸いがらをほうりこんだ。しゅっという音。  もう一度ごみ箱にほうりこんで、顔をあげる。  犬を連れた老人が、こちらを見ていた。顎《あご》をうなずかせてくる。相藤は会釈《えしゃく》を返した。頬《ほお》がほころぶ。犬はわりと好きだ。  老人は、ゆっくり歩いてゆく。 『さて、どうしようかな?』  カバンの中には、文庫本がほうりこんである。連続|殺人鬼《さつじんき》を扱《あつか》ったサスペンスだ。この静かな公園で読むには、なんだかそぐわない本だと、ふと思った。昨日、買った時は面白《おもしろ》そうだと思ったのだが。 『寂《さび》しい奴《やつ》の話って、なんだか感情移入できちゃうからなぁ』  相藤は、裏表紙にしるされていたあらすじを思い出した。  この世に存《あ》る意味を求めて、あがいたあげく狂気《きょうき》におちいっていく殺人鬼と、正気と狂気のはざまでそれを追う刑事の物語。 『でも、人殺しと、こんな日常とは、かけ離《はな》れすぎてるよな』  相藤はそう思った。  若い主婦は、編み物の本を広げている。かたわらには、毛糸が入ったバスケットが置かれていた。 『ああいう本が、ここには似合うよな。殺人なんて別世界の話じゃなくて』  主婦のそばでは、幼い男の子と女の子が、落ち葉を使ってままごとをしている。その隣《となり》では、たまに見かける茶髪《ちゃぱつ》の浪人生《ろうにんせい》が、手製の単語帳を広げていた。  ここで血腥《ちなまぐさ》い物語というのもピンとこない。通り二つ分向こうに、柔《やわ》らかな雰囲気《ふんいき》の喫茶店《きっさてん》がある。時々、早く目が覚めた時は、遠回りしてモーニングを食べる店だ。行こうかと、少し迷った。 『でも、今日は金曜日だし。このあいだ見つけた法則が正しいなら……』  ようし、ここにいようと、相藤は決めた。でも、とにかく、コーヒーだけは飲むことにする。  公園を出て、道を向かい側に渡《わた》ると、自動|販売機《はんばいき》があった。  味なら他のメーカーのもののほうが好きなのだが、ひいきのタレントの、グッズプレゼントのキャンペーン中なのだ。  また少し迷って『あたたかい』のほうにした。  秋は深まっている。  とりだした缶コーヒーから、プレゼント応募用の点数シールをはがし、.システム手帳を開いて、それ専用にしている頁《ページ》に貼《は》りつけた。  プルトップを引き開けた所で、相藤は、通りを歩いてくるほっそりとした影《かげ》に気がついた。  彼は、自分の決断が正しかったことを知った。それから、先週、この公園で思いついたことも正しかったようだ。  彼女は、決まった曜日にここにやってくる。  最高級の墨《すみ》で染めたように黒い髪《かみ》。それは、後ろでたばねられている。最上の和紙のように白い肌《はだ》。手にしているのは、やはりいつものように古惚《ふるぼ》けたハードカバー。  白のブラウスに黒のスカート。今どき珍《めずら》しいくらい、やぼったいファッションだ。地味なデザインの眼鏡《めがね》をかけて、うつむき気味の姿勢で歩いてくる。  実は美人だ。それに気がついているのは、公園の常連でも自分だけだろうと、相藤は思っている。  彼女が目の前を通り過ぎていった。  できるかぎりさりげなく、缶コーヒーを口に含《ふく》んだ。どうにか、ぎこちなくはならずにすんでいる。  彼女をはじめて見たのは、夏がはじまる直前だった。  次に見たのは、蝉《せみ》のうるさい頃《ころ》だ。いちょうの木陰《こかげ》で、ふしくれた根っこに腰掛《こしか》け、画集を広げていた。並木の中でも図抜《ずぬ》けて大きな、百年を越《こ》える樹齢《じゅれい》のいちょう。  それから時々、意識してこの公園をのぞくようになった。このあいだ、火曜と金曜の昼さがりに、彼女は来るのだと気づいた。  声をかけようとか、口説《くど》きたいとか思ってはいない。つきあっている女性はいるし、性格的にあうその恋人《こいびと》とは結婚《けっこん》も考えている。ただ、公園の彼女とは、ちょっとした時間を共有してみたかった。  とりあえず、同じように本を読んでみようと思って、公園に来る時は本を持ってくるようにしている。今日は選択《せんたく》を間違《まちが》えたけれど。  相藤は、ベンチにゆっくりと戻《もど》りはじめた。彼は、おのれのはるか頭上に、何かがたゆたっていることに、気がついていない。  正確には、そこに何かが存在するのではない。  欠け落ちているのだ。連続して、欠落してゆくのだ。  ある範囲内《はんいない》の存在が、ばらばらになり、分解され、まるで放送|終了後《しゅうりょうご》のテレビ画面のように一瞬《いっしゅん》流れて、また、もとに戻る。    2 事件の報らせ 「連続|殺人鬼《さつじんき》ぃ?」 「流《りゅう》くん、わくわくしたような声あげないの。不謹慎《ふきんしん》だよ」  中学生くらいに見える少女が言った。カウンター前に腰《こし》かけて、オレンジ色の液体の入ったグラスを手にしている。 「へいへい。で、どういうことなんだ? 詳《くわ》しく聞かせろよ、鳶矢《つたや》」  少女の小言《こごと》を軽くあしらって、若者は身をのりだした。たしなめられても当たり前な、興味|津々《しんしん》の顔つきだ。 「連続殺人鬼、じゃないな。連続殺人でもない。厳密に言うなれば殺人連続事件だ」  答えた若者のほうは、どこかひょろりとした印象だった。 「なんだか、さっぱり意味がわかんないぞ」  流と呼ばれた若者は、当惑《とうわく》した顔つきだ。どこか間の抜けた表情を補えるくらい、たくましい体躯《たいく》と甘《あま》いマスクは魅力《みりょく》的だった。 「つまり、別々の犯人が別々の殺しをやってるけど、何か共通点があるってことか? 誰《だれ》かがそそのかして回ってるとか」 「流にしては、よく頭が回ってるじゃないか」  拍手《はくしゅ》するふりをしながら、長髪《ちょうはつ》で眼鏡の蔦矢が言う。 「蔦矢、お前、それ、ほめ言葉になってないぞ」 「もちろん、ほめてるつもりなんてないよ。言葉のニュアンスは正確に解釈《かいしゃく》してもらってるようだね」  蔦矢は、自分のグラスを手にとった。彼が飲むのは水だけだ。それも、水道水などではなく、天然の泉から汲《く》んできたものか、きれいな雨水でなければならない。  藤《ふじ》の木の精である彼、加藤《かとう》蔦矢には、それが不可欠なのである。  ここは、バー <うさぎの穴> 。都会の闇《やみ》に、ひととひとの狭間《はざま》に、隠《かく》れ棲《す》む妖怪《ようかい》たち。彼らが、正体を隠さずにすむ場所だ。  通常の手段によらず生まれてきた異形《いぎょう》の命。誰かが、『それはいる』と恐《おそ》れたことによって、誰かが『どこかにいて』と願い続けたことによって、そうして生じた、想《おも》いの結晶《けっしょう》。  それが、妖怪《ようかい》と呼ばれる存在だ。  おのれの生まれに呪縛《じゅばく》され続けた者もいれば、自立して、新たな自分を、この世界に在る意味を求めはじめた者もいる。  そうした妖怪《ようかい》たちは、人間に変身して、生きてゆくための表の顔を持った。そして、互《たが》いに助けあうためのネットワークを作りあげた。生き続けるためには、人間との共存をはからねばならない。妖怪たちの中には、おのれの生まれに縛《しば》られて、人間に害をなすものたちもいる。そういった妖怪の跳梁《ちょうりょう》を許せば、それは妖怪全体の存続を脅《おびや》かすことにもなりかねない。  なによりも多くの妖怪たちは、おのれの『親』である人間たちを、やはり愛さずにはいられないのだ。  超《ちょう》自然の能力を持った妖怪に対抗《たいこう》できるのは、同じ妖怪だけ。  だから、彼らは奇怪《きかい》な事件があると、探索《たんさく》の手を——あるいは触手や尻尾《しっぽ》や思念を——伸《の》ばす。 「それで、具体的にはどういうことなの?」  スツールの少女、かなたが訊《たず》ねた。彼女は、この <うさぎの穴> のマスターの娘《むすめ》である。正体は化《ば》け狸《だぬき》。実在の生物である狸ではなく、狸は化けると信じた人々の心から生まれた、妖怪狸だ。 「何か共通点があるから、霧香《きりか》さんも話を持ちこんだんでしょ?」  霧香は、人間に愛用された銅鏡に魂《たましい》が宿って生まれる妖怪、雲外鏡《うんがいきょう》だ。何体かいる雲外鏡の中でも、もっとも古参の一人。卑弥呼《ひみこ》に愛用されていた銅鏡だという噂《うわさ》もある。 <うさぎの穴> のメンバー中、もっとも年長だった。  ふだんは、原宿《はらじゅく》で占いの店 <ミラーメイズ> を経営している。奇妙な事件に巻きこまれた人間たちに相談を受けたり、客から不思議な噂《うわさ》を聞きこんできて、それが妖怪のしわざだと判断したなら <うさぎの穴> に知らせるのだ。  蔦矢は、文学部の大学生としての顔を持ち、同時に霧香の助手として、表でも裏でも手伝っている。 「霧香さんに言われて作った、新聞の切《き》り抜《ぬ》きだ」  カバンから、スクラップブックを取りだして開く。 「読んでみてよ。文《ふみ》ちゃんの言ってたことでも思いだしながら」  記述されること、言葉になることによって、観測された時は固定され、事実は変質してゆく。解釈され、また変わる。だからこそ、言葉には思いをこめねばならない。  文ちゃんこと墨沢《すみざわ》文子《ふみこ》は、手紙を運ぶ文車《ふぐるま》の化身《けいしん》、齢《よわい》千年を越《こ》える文車|妖妃《ようき》だ。 <うさぎの穴> を拠点とするネットワークの一員である。 「ほんとにバラバラだな」  ざっとながめて、流が言った。彼は、龍王《りゅうおう》である父と人間の母親のあいだに生まれた、半龍《はんりゅう》半人である。  かなたが、彼の手もとをのぞきこんだ。 「殺したほうも、殺された人達も、お互いに関係ないみたいだし。手口も時間も場所も、どれも全然|違《ちが》ってるね……あれ? 犯人が全部、事件の直後に自殺してる?」  かなたと流の顔がひきしまる。  操《あやつ》られた——そんな言葉が脳裏《のうり》に浮《う》かんでいるのは明らかだった。 「霧香さんが事件に興味を持ったのはそこからだよ。でも、それだけじゃない」  蔦矢は、二人のようすをうかがった。もったいぶっているわけではない。妖怪の引き起こす事件は、同じ妖怪たちの発想をもってしても、理解しがたいものが多い。誰《だれ》かから頭ごなしに説明されるのではなく、可能なかぎり、せめて下ごしらえのレベルくらいまでは自分で発見しないと、感情的に信じ難《がた》いことも多いのだ。 「ひょっとして、現場を線でつなぐと、何かの形になるとかいうんじゃないだろうな?」  流の冗談《じょうだん》めかした言葉に、蔦矢は小さくうなずいた。 「おおよそは直線になる」  龍王の息子《むすこ》が顔をしかめる。単純すぎて気に入らないのだ。まっすぐ移動しているだけでは、敵の正体をつきとめる手がかりになりにくい。しかも『おおよそ』では。次が予想できない。 「ほんとだ……ねえ、次あたり吉祥寺《きちじょうじ》の……しかも近くじゃない?」  かなたも、別の意味で顔をしかめた。文車妖妃の文子。吉祥寺には彼女の住む古書店、稀文堂《きぶんどう》がある。直線を延長すると、その近くを通る。  かなたは、もう一度、記事を読みこんだ。 「あ、それに、あと一つだけ、共通してること、見つけた」  白い指先で、文字をたどる。 「この事件には、すべて動機がない。衝動《しょうどう》的な殺人だ」  先んじて、蔦矢が言った。 「うん。でも、まだ捜査《そうさ》中なだけかもしれないし」  自分で見つけておきながら、かなたは自信がなさそうだ。 「動機のない殺人なんて、近頃《ちかごろ》じゃ珍《めずら》しくないぜ」  流は、苦い声で言った。 「ああ、そうなんだ。でも、ある人が教えてくれた」  蔦矢は、小さな携帯《けいたい》用ラジオを取り出し、カウンターに置いた。  スピーカーから、音が洩《も》れた。まだスイッチが入っていないのに。    3 ふたたび公園にて  彼女は、吉祥寺にある、小さな古書店で働いているらしい。名は墨沢文子。ここには、商売のあいまの気分|転換《てんかん》にやってくる。  相藤が聞きだしたわけではない。公園には、おしゃべりが好きな主婦も集まる。好奇心《こうきしん》を満たすことに貪欲《どんよく》なタイプもいる。  彼女は、いつもうつむき気味で、ぽつりとしか話さなかった。  はじめのうちは、そんな彼女をほとんどの者が気味悪がっていた。  相藤は、少し変わっているだけで、悪い人間ではないと確信していたが、やっぱり口をはさむこともできなかった。  集まる主婦の一人が何度も訊《たず》ねて、ようやく名前と仕事がわかると、それでみんな興味をなくした。  未知の人物ではなくなり、ただの公園利用者の一人になったのだ。  無口なのが彼女の性格であることも承知されて、最近では誰も滅多《めった》に話しかけることはない。たまに、そんなに暗くてはだめだとか、おつきあいしている男性はいないのかと訊ねる者もいる。年下の恋人《こいぴと》がいるという答えが、ぼそぼそ戻《もど》ってきたそうだ。  もっとも、十分の一の年だなどと言っていたらしいので、冗談《じょうだん》か聞き間違《まちが》いかもしれないが。  ともかく、ここで、彼女が男性と言葉をかわしているのなど、見たこともなかった。いや、自分から他人に話しかける光景すらない。  今も、文子は、いちょうの下に腰掛《こしか》けて、静かに本を広げている。  表情は見えない。  ほとんど誰も、彼女の顔を正面から見たことはない。 『俺《おれ》だって、横顔だけだもんな』  たった一度だけ、相藤は彼女の笑顔《えがお》を見たことがある。  緑の葉をすりぬけてくる、きらきらとした初夏の日差しを浴びて、彼女はいちょうの大木を見上げて、静かに微笑《ほほえ》んでいたのだ。  長い年月をともにした老夫婦が、言葉をかわさず思いをかわしている姿のようだと、相藤は感じた。  公園には他《ほか》に誰もいなかった。  やってきた相藤に気がついて、文子はそそくさと顔をうつむかせ、いちょうの木の下に腰をおろした。  耳まで真っ赤にして。  何か悪いことでもしたような気になったことを覚えている。  それまでにも、顔は見たことはあった。名を知ったのは、それからさらに何週間か後だ。  それ以来、彼女に注意を向けるようになったから、知った。名前を知ったことで、なんとなく距離《きょり》が近づいたような気がした。  名前を知らなくても、時を共有できる幸せに憧《あこが》れていたはずなのだが。その矛盾《むじゅん》に、相藤はまだ気づいていない。  あんな風に安らかそうな表情を、自分も浮《う》かべることはできないだろうか。そう思い、彼女と時と空間を共有すれば、少しでも似た気持ちになれるのではないかと感じて、そして真似《まね》をしている。  一方的な思い入れ。  そのこともわかっている。  恋《こい》ならば、まだいい。それですらないから。 『気持ち悪いかな、俺は?』  だが、食べるために好きでもない仕事をこなし、夢がすりきれ、かつての友人たちとも疎遠《そえん》になっている相藤には、せめてそのくらいの救いが必要だったのだ。  彼は、せかせかと歩きはじめた。 『隣《となり》に座《すわ》ったら、邪魔《じゃま》に思われないかな』  相藤は、何度もまばたきをした。  本をかかえて、文子はいちょうの根もとに腰をおろした。いつものように、地面の上に白いハンカチを広げている。 『意味もなく、隣に来るやつって気味悪くないかな?』  不安だった。  自分なら……やはり、嫌《いや》だろうから。 『この本もなぁ、女を追いかけて殺しまわる話なんて、隣で読まれても不愉快《ふゆかい》だよなぁ。いったい何者だ、なんて思われちまう』  いっそ名刺《めいし》をさしだそうか、どこの誰なのかがわかれば、安心してもらえるかも……。 『けど、そんなのも変だわなぁ』  相藤は悩《なや》んだ。いささか自意識|過剰《かじょう》かもしれない。 『ふつうなら、いちいち他人がどんな本を読んでるかなんて気にもしないだろうけど。彼女、本屋さんだし。ああ、こんなこと知らなきゃあなぁ。中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に知ってるから』  ちらりと視線を投げて、相藤は少し驚《おどろ》いた。あの浪人生《ろうにんせい》が、文子に話しかけていたのだ。文子は、本のあいだに顔をうずめている。 『ううん、止めに入るべきかなぁ』  相藤は迷った。ふだんの見た目はともかく、今のあの浪人生は、けっこう真面目《まじめ》そうな表情だ。 『俺は、彼女とはなんの関係もないわけだし』  迷っていたら、その時、相藤の背広の内ポケットから、小さなメロディが聞こえた。電波が、携帯《けいたい》電話に届いたのだ。  その時。それこそが、きっかけだった。  虚空《こくう》との『道』がつながり、必要な条件がそろったのだ。  相藤は、気がつかなかった。自分に向かって、この公園に向かって、何かが下りてきたことに。 「ああ、もうこんな時に」  彼は、小さく呟《つぶや》いて、ふところに手を伸《の》ばして……。            ////ザザッ 『あれ、一何をしようとしてたんだ?』  手が止まった。  自分が何をしようとしているのか、彼はその意味を見失っていた。  相藤は傾《かたむ》けていた顔を正面に戻し……。  その瞬間《しゅんかん》に、すべてが途切《とぎ》れた。                   断続的な。              唐突《とうとつ》な。        非日常の到来《とうらい》。  情報の喪失《そうしつ》。エントロピーの急激な増大。      ////ザザッ                俺《おれ》はどうなっている。  上と下がわからない。                       ?かのなまさかさ  いや、上ってなんだっけ。     見える。                      青。             ………………。  ……の色だ。だからつまり??                ——浮《う》いているんだっけ——    ……のあるほうに白いものが浮かんでいる。   それから    緑         茶色。       色??? い……。            ***って、なんのことだ。   沈《しず》む。俺が沈んでいく。支えるもの、                     が何もない。             ふ わふ……わ、  怖《こわ》い……。恐《こわ》い。こわい。       コワイ? なぜ、これだけははっきりと……   そんなことどうでもいい。とにかく、          こ・わ・い     名がわからない、言葉が出てこない、あらから まは となれ      ***==+/| | | | ¥¥  JKDWQ 13           ////ザザッ 「…………!!」  彼は叫《さけ》びをあげた。  ともかくも、おのれの体という認識《にんしき》だけは取り戻《もど》した。だが、その瞬間にわきあがってきた絶対的な感情。恐怖《きょうふ》。  驚愕《きょうがく》のあまり、声をあげる。言葉を発したつもだった。だが、すでにその『意味』は失われていた。  彼の眼前には、何かがいた。  何か、だ。それが何者であるのか、相藤には理解ができない。  ややつぶれた円筒《えんとう》から、もっと細い筒《つつ》が伸《の》びて、ぎくしゃくと動いていた。てっぺんについた球。その表面で模様がうごめいている。  それが人間であることを、相藤は理解できなくなっていた。人間という概念《がいねん》を知っているが、眼前の存在とそれが、結びつけられなくなっているのだ。胴体《どうたい》、手、足。そして表情が歪《ゆが》んでいる。だが、相藤は、その『形』が何を意味するのかを見失っていた。それは、彼にとって『未知の存在』と化していたのだ。  まったく見知らぬ何か。  それが……どこにいる?  ……距離《きょり》の意味も失われていた。距離を認識できなくては、遠くにいても近くにいても同じことだ。百メートル先だろうが、自分と重なる位置だろうが、とにかく、『いる』。  意味不明のもの。知らないもの。理解できないもの。  人は、それに直面しえない。 「ひぃぃぃぃぃっっ!」  悲鳴《ひめい》が口から自然に洩《も》れていた。まだ、自分までは失っていない。おのれという存在を喪《うしな》うことを恐《おそ》れている。  肉体的な危機を予想したのではない。何も予想することができなかった。こいつが何をしようとしているのか。なぜなら、それはまったく未知の存在になっていたからだ。  逃《に》げようとした。理性というよりは、原始的な知恵《ちえ》の働きだ。  ////ザザッ  だが、次の瞬間には、相藤の精神からは、『逃げる』という概念そのものがかき消されていた。    4 フライディ・ナイト、Aパート 「はぁい、今夜も聞いてくれたんだね。フライディ・ナイトのおしゃべりを、じっくり楽しんでくれ」  ラジオから聞こえてきたのは、いささか古風なディスクジョッキー口調だった。とてもクリアな音声だ。最高級のオーディオ設備でも、これほど生々しく再現できるものかどうか。 「今夜、だって?」  流は、呟《つぶや》いて腕《うで》時計を見た。午後三時。秋の太陽はもう傾《かたむ》きはじめているかもしれないが、絶対に暮れてはいない。 「おおっと、そうだった。もうしわけない。でも、ぼくがフライディ・ナイトだから、後半の挨拶《あいさつ》は間違《まちが》ってはいないよ」  ラジオの声は、軽快な調子でそうつけくわえた。バックグラウンドには、軽快な八〇年代のロックが流れている。 「ああ、噂《うわさ》で聞いたことがある。音だけの妖怪《ようかい》って」  かなたが、ぱっと笑顔《えがお》を浮かべた。 「その通り。音から生まれてきた音。音の世界からやってきた騎士《きし》。金曜日の夜の海賊《かいぞく》放送。それが、ぼく、フライディ・ナイト」 「このラジオそのものが妖怪《ようかい》、ていうわけじゃないんだよな? うちのピアノくんみたいにさ」  戸惑《とまど》った顔の流が、 <うさぎの穴> のグランドピアノを示した。 「ノンノンノン。この音そのものがぼくなのさ」  次の台詞《せりふ》は、バーのかたすみに置かれたテレビから流れてきた。このテレビは妖怪ではない。電波妖怪たちの干渉《かんしょう》のおかげで、時々、勝手にスイッチが入ったり切れたりはするけれど。 「音波っていうくらいだからね。波なら起きる海がある。誰《だれ》にも聞こえない場所で生まれた音たちがやってくる、音だけの異世界。そこで生まれた命が、ぼくさ。最初は南極の真ん中で氷が砕《くだ》ける音や、砂漠《さばく》を渡《わた》る風の音。意識が生まれてからは、死んだ綺麗《きれい》な声を真似《まね》して話せるようにもなったけど」  もとのラジオから、ふたたび声。自然音が、かすかに流れている。 「音はやっぱり、聞いて欲《ほ》しいのさ。綺麗だって褒《ほ》めてもらいたい」  その瞬間《しゅんかん》には、背景音が消えた。 「で、聞いてくれる相手に色々と警告を発してくれてるわけだ」  蔦矢が、ラジオにてのひらを向ける。 「さよう。音の世界のことなら、フライディ・ナイトにおまかせさ」  声が上下した。お辞儀《じぎ》でもしたかのように。  動きの優雅《ゆうが》さまで伝わってくる。 「それじゃ、この殺人事件は、音か電波の妖怪がやってるの? 暗示でもかけてるとか」  かなたが、顔の高さにラジオを持ち上げて話しかけた。 「無理もない推測だけど、それはちょっと違うんだなぁ」  ちちちと、舌《した》を鳴らす音が聞こえた。目の前に、ちょっとはすにかまえた若い男性の姿が浮かんできそうだ。 「確かに、生まれは音の世界に関係してるけど、そんなに直接的な話じゃない。人間って生き物の根源的な弱さに由来してるんだ、殺人は。もっとも、そうなるように奴《やつ》が細工《さいく》してるのも本当だけど」  わざとらしく芝居《しばい》がかった口調。 「おい、まわりくどい言い方はやめてくれよ」  流は、いらだちを顔にあらわしている。 「そもそものはじまりはね。携帯《けいたい》電話だったんだよ」    5 虚無  なにもかもが恐《おそ》ろしかった。  ここがどこなのかも、もうわからない。  公園に居合せた人々|全《すべ》てが、見えるもの、聞こえるものの意味を認識《にんしき》することができなくなっていた。見えても、聞こえてもいる。それが心に届くまでに、意味をずたずたにされているのだ。  風景がにじみ、ときおり流れる。そのぼやけは、まるで公園をとりまく鉄柵《てっさく》で反射するように動いていた。ときおり、誰かの体と重なり、そして相藤のふところに一度|戻《もど》って、また出てゆく。  そんなことを、冷静に観察できる精神状態の人間は、しかしここには誰もいなかった。  彼らは、心底まで怯《おび》えていた。逃《に》げ場《ば》はどこにもない。逃げられないなら、せめて……。      ////ザザッ  隣《となり》にいる、自分と形は似ているが、はるかに小さな動くものはなんだろう?  母親はそう考えていた。動いている。もしかしたら襲《おそ》いかかってくるかもしれない。彼女は、しっかりと編み針を握《にぎ》りしめた。それが何に使われるものなのかはわからなくなっていた。だが、おのれの意のままになるものではあるようだ。恐れるものではない。  そうとわかれば、人間には道具を使う知恵《ちえ》がある。  怖《こわ》いのは、自分と同等でありながら理解できないもの。  足もとにいる、この小さなうごめく何か、などだ。  その小さな何か、男の子は、きょとんとしていた。幼い子供たちにとっては、世界はもとから未知のもので充満《じゅうまん》してる。  子供たちが手を伸《の》ばす。隣にいる、大きな者が何かを知るために。  彼らはまだ、未来を想像してしまうことによる恐怖を、知らない。                      ////ザザッ 『どうして、わしの手と、この動くものは結ばれとるのじゃろう』  老人は考えこんだ。  あらゆることの細部が、不明瞭《ふめいりょう》だった。  モザイク処理された画像を思い起してみればいい。そうすれば、この打ち砕《くだ》かれ、でたらめにつなぎあわされた記憶《きおく》と認識の様相が想像できるかもしれない。  一つ一つの画素が拡大され、そこに映っているものが何なのか特定はできなくても、動いていることくらいはわかる。そして、動いているものが自律的な存在であり、なんらかの意志を持っていることも、場合によってはわかる。 『こういう時のために、あいつを連れておったはずなんじゃが』  老人は、自分を守ってくれる存在がいたはずだと思った。だが、それがどんなものだったかを考えだすと、頭の中にまるで霧《きり》がかかったようになってしまう。  どこにいるのかも、さっぱり思い出せない。頭に浮《う》かんではくるのだが、別の思考がでたらめに浮かんでくるのだ。 『十年前、わしは旧制中学を卒業して、明後日《あさつて》、子供がわしを生んで、五十歳の時には離乳食《りにゅうしょく》を……』  ランダムにしか拾い上げてくることのできない記憶。かたわらでうごめく生き物に怯《おび》えつつ、老人は、ただ立ち尽《つ》くしていた。  だが、ときおり聞こえてくる奇妙《きみょう》な音になだめられて、老人はまだ走り出していない。  犬の吠《ほ》え声《ごえ》。もとより意味なき音。言葉にあらざるそれは、言葉にならぬ記憶に通じるゆえに、『意味』を失っていない。  ////ザザッ  浪人生《ろうにんせい》は、恐怖《きょうふ》にかられて、手にしていたものをふりあげた。  ぶんとふりおろす。  耳の中で砂が渦巻《うずま》き、脳の中でフラッシュが明滅《めいめつ》していたが、まだ武器という概念《がいねん》だけは掴《つか》みとることができていた。  もっとも、効果的な武器がどんなものであるかは、やはり邪魔《じゃま》されて、途中《とちゅう》で情報が欠落してしまうのだが。ふりおろされたのは単語帳だったから、ぶつかってばらばらになっただけだった。  彼に攻撃《こうげき》された相手は、球体のやや下部にある、***でいろどられた空洞《くうどう》を蠢《うごめ》かせた。  口だ。それから、***は赤。  錯綜《さくそう》した情報の中から、ひょっとそれだけが浮かびあがってくる。 「……あの、よしてください。あなたは……あの、その」  震動《しんどう》が鼓膜《こまく》を震《ふる》わせる。それが声だと、話しかけられたのだと、かろうじて理解できた。 「あ……な……た?」  浪人生は、言葉を繰《く》り返した。二人称《ににんしょう》。対面している相手への呼びかけ。ならば、それは十十十。なに/////。  言葉にならない。人は、言葉に頼《たよ》って、我と彼を認識する。  ぽっかりと足もとに黒い穴が開く、どこまでも落ちてゆく。  それは幻想《げんそう》だ。幻覚だ。だが、作り出したのは自分。みずからの心理状態を忠実に現実に反映させたいという願いが、彼を動かした。  俺《おれ》は……誰《だれ》だ?  意味は……なんだ? 片隅《かたすみ》にかかえていた虚《むな》しさが、他《ほか》のなにもかもが欠け落ちていった今、くっきりとうかびあがる。  それは、すでに失われていた。『あなたは』と他者から問い掛《か》けられた時、そこに見出《みいだ》したのは空白だけだ。 『耐《た》えられない。空虚《くうきょ》さと恐怖《きょうふ》に耐えられない。ならばどうしよう』  彼は、ふらふらと歩き出した。  眼前に、空へと伸《の》びるものが出現する。でたらめな認識の中で、上下の概念が復活する。  登れば、落ちることができる。幻想を現実にすりかえることが。 ////ザザッ  その時。  地面の枯《か》れ葉《は》が一斉《いっせい》に宙におどりあがった。人々の目をふさぎ、まとわりついて動きを止めた。    6 フライディ・ナイト、Bパート 「多分、付喪神《つくもがみ》っていう名で呼ばれているものの一種なんだろうね」  フライディ・ナイトは言った。 「もともとはただのPHS。でも、今は電話じゃない。それはとっくに、壊《こわ》れてしまったから。なんて呼べばいいのかなぁ」  さっきまでと違《ちが》って、いささか自信なさげな声音。 「名前なんかどうでもいいから、さっさと前へ進もうぜ」  流が口をはさんだ。太い眉《まゆ》のあいだが、狭《せま》くなっている。 「そうはいかない。きみたちと違って、目に見える実体のない我々みたいなものにとって、名前というのは……」 「重要なのはわかってる。あたしたちが実体を得る時だって、きっかけになるのは名前をつけられた時だもん。けど、でも今は前に進んでもらえないかな?」 「こりゃあ、失礼。この放送には、制限時間はないし、コマーシャルタイムだって自在なんだけど。ま、こうしてるあいだにも何が起こってるかわかんないしね」  フライディ・ナイトは、真面目《まじめ》な口調でそう言った。 「それじゃあ、おたよりを読もうか。誰かさんの最期《さいご》の言葉や、語りきれなかった想《おも》いが、この番組に届くのさ。この件に関してはずいぶんとどっちゃり、おたよりがきてるんだ」 「事件に巻きこまれて、殺された人たちからか?」  流が、厳しい表情で訊《たず》ねた。 「ノン、ノン。ことのはじまりにかかわった人たちさ。九十九%の人たちは、自分たちがかかわってたなんて知らないけどね」  ラジオを聞いていて、邪魔《じゃま》されることがあるだろ? とフライディ・ナイトは言った。他の電波や、聞きたいものとは別の放送に割りこまれる。時には、まるで知らない言葉で話される放送もある。  けれど、いちばん多いのは意味のないザァザァという音。エントロピーの海に飲みこまれて、失われてしまった言葉たち。  それは、ラジオに限らない。  テレビや電話のやりとりでも、ときどきある。携帯《けいたい》電話なんてしょっちゅう。ううん、日常に顔をあわせてやりとりしていても、意味が届かないなんてことはよくあるだろう。そういうことなんだな。 「まさか、その妨害《ぼうがい》が命を宿した……?」 「はぁい、御名答《ごめいとう》。さすがは <うさぎの穴> のかなたちゃん」  フライディ・ナイトの口調は、おどけたものではない。 「肝心《かんじん》かなめな時に、聞こえなくなるってのはよくあることで。そこに何かの意志を感じとっちまうじゃない、人間って」  以前に流は、仲間の一人、算盤小僧《そろばんこぞう》の大樹《だいき》とともに、マーフィーという名の妖怪と戦ったことがある。  ここぞというところでフリーズしてしまう。重要なファイルに限ってクラッシュする。明日|〆切《しめき》りのここ一番でバグが見つかる。 『そんなコンピューターのアクシデントは、マーフィーという悪意の塊《かたま》りがいるから起きるのだ』  コンピューターにかかわる人々の、いたずら半分の噂《うわさ》から生まれた、電子妖怪だった。 「ただね、こいつの生まれにはもう一つの由来があるんだ。ていうか、最初のままなら、電波をたどって渡《わた》り歩きながら、言葉の邪魔をするくらいしかできなかったろうと思うよ。肝心《かんじん》なことは、おたよりに頼《たよ》ろう。埼玉《さいたま》県の、本名OK各務蔵《かがみぐら》紅音《あかね》ちゃんから」 『あたし、ちょっと、とんでもないことしちゃったかもしれない。  このあいだ、PHSでカレシと話してたら、いちばん大切なとこで聞こえなくなって。  大喧嘩《おおげんか》して、別れちゃったの。  それでね、何もかも嫌《いや》になったの。受験勉強も疲《つか》れてたし。こんなことしたって、どうせ、たいしたとこに就職できないし。  あたし、なんのために生まれてきたんだろう?  幸せなんてどこにあるのって、カンジ?  ふらっと歩道橋乗り越《こ》えちゃったんだ。そこって、前から何か不思議なことが起こるって噂《うわさ》があるところでぇ。  そしたら、なんか、あたしの空《むな》しいなあっていう気持ちとぉ、PHSの中にいたやつとが融《と》けあっちゃったみたいなの。これって、すっげぇヤバくない? どー思う、フライディ・ナイトさん?』 「いやはや、紅音ちゃん。ヤバい、ヤバい。おおヤバですって。短絡《たんらく》的すぎたねぇ。たぶん、そこは <扉《とびら》> の近くだったんだ」  妖怪たちは、人の想いから生まれる。実在を強く信じれば、それは生を受ける。だが、無差別に生じるわけではない。  妖怪ばかりではなく、あらゆる生命は、いまだ科学に知られていない、奇妙《きみょう》なエネルギーにその存在を支えられている。  普通《ふつう》の命は、親の胎内《たいない》にそのエネルギーが宿ることによって生まれるのだ。魂《たましい》や気、オルゴンエナジー、オーラ、さまざまな名で呼ばれるそのエネルギーは、この世界とは異質な空間から流れこんでくる。どこにでもあるわけではない。多くの場所では希薄《きはく》で、特定の場所では、強く大量に存在する。そこが <扉> や <回廊《かいろう》> と呼ばれ、妖怪が生まれて、奇怪《きかい》な事件も起きやすい。 「じゃあ、今もやっぱりPHSや携帯電話にとりつくの?」  かなたが訊《たず》ねる。 「実体はないんだ。それを通じて効果だけが現われる」  フライディ・ナイトが答える。 「で、なにかよ、この女の子の死にたがる気持ちを広めてるのか!?」  流が、どんとカウンターのテーブルを殴《なぐ》りつけた。携帯ラジオが倒《たお》れる。フライディ・ナイトは、ため息をついた。スピーカーが下向きでも、音はくぐもったりしない。 「ちょいと違《ちが》う。こいつにできるのは別のこと。ただし結果は似たようなもの。それどころか、もっと悪い。まわりも巻きこんでしまうんだな。こいつは、『意味』を失わせるんだ」  かなたが、ラジオを起こした。 「霧香さんが言うには、まっすぐ進んでいるのは天敵の存在を察知したからじゃないかって言うんだけど」  蔦矢の言葉に、かなたも流もきょとんとした。天敵って、なんだ? 「罠《わな》を張る。それを手伝って欲《ほ》しいんだ。あした[#「あした」に傍点]、金曜日に」  そこで、蔦矢は後ろめたそうな顔になった。 「で、文ちゃんにも、手伝ってもらわなきゃいけないんだけど……。なんか、金曜日だと、デートの邪魔《じゃま》をしちゃうそうなんだよな」 「あの、噂《うわさ》の十分の一の年下の?」  かなたが言った。文子の十分の一といっても百は確実に越える。 「明後日《あさつて》ってわけには、いかないのか?」  流が訊ねた。 「待てばそれだけ犠牲者《ぎせいしゃ》が出る。霧香さん、自分が説得に行くのが嫌だからって、ぼくに押《お》しつけてくれたんだ、で、頼《たの》みが……」 「俺《おれ》はつきあわないぞ」 「あたしは行かないから」  二人は、同時にぶんと首を左右にふった。    7 命名  文子は、ほっとした笑顔《えがお》をいちょうに向けた。  舞《ま》いあがった枯《か》れ葉《は》が、ついさっきまで彼女を誘《さそ》おうとしていた浪人生《ろうにんせい》の目をふさいで、動きを止めている。  いちょうの木を、傷つけることはないと確かめて、ふりむいた。  編み針をかざした母親も、女の子に止められている。というか、相手が消えて、ほっとしたようすだった。幼い少女に化けていたかなたが、元の姿をあらわして、男の子をかかえて逃《に》げたのだ。非力な彼女には、どちらかといえばそのほうが簡単だった。  老人と犬は、まだ動いていない。犬は、おとなしく飼い主が首輪をはずして遊ばせてくれるのを待っている。  文子は、残る一人の行動を確かめようと、首をひねった。  で、見た。とっさに体を沈《しず》める。  彼女にしては素速《すばや》い動作。救われた。危ないところだった。  金網《かなあみ》で作られたごみ箱が、彼女の頭をかすめていったのだ。 「りきゃすらなばべなくろろろろろろろ」  文子が公園にやってきた時、缶《かん》コーヒーを買っていた男だった。営業マン風のスーツを着ている。  以前にもこの公園で見かけたような気もするが、断言はできない。文子は、この公園に集まる人間たちに興味を持ったことがなかった。たとえ観察していたとしても、人相が、がらりと変わっている。  意味のない言葉を口からあふれさせ、目は血走り、どこにも焦点《しょうてん》があっていない。  あわせることができずにいるのだ。見える光景が意味を失っている以上、そうしても無駄だから。  名なきものへの恐怖《きょうふ》に憑《つ》かれたその男——相藤は、ふたたびごみ箱をふりあげた。文子は、身をすくませた。かなたも非力だが、文子も物理的な暴力には弱い。いや、かなた以上に脆弱《ぜいじゃく》だ。丈夫《じょうぶ》な人間と、さほど変わりのない耐久力《たいきゅうりょく》しか持ちあわせていない。  避《さ》けようとして、文子はころんだ。履《は》きなれないハイヒールのせいだ。  いつも座《すわ》っているばかりで、歩くのは本棚《ほんだな》の前を行き来する時だけとはいえ、その本棚は古今東西の『書かれることなく終わったあらゆる本』『言いそびれたすべての言葉』、深い思いをこめた無数の書物をおさめた無限本棚なのだ。足には、けっこう自信があったのだが。  たまには、彼にもおしゃれ姿を見せてあげようかなと、このあいだ読んだ、未完だった少女マンガの、ようやく出た完結|篇《へん》の影響《えいきょう》で思った。  買い物は、インターネットで通信|販売《はんばい》。  こういうものは、やっぱ店で試《ため》してからにするべきだっただろうか、と、文子は一瞬《いっしゅん》のあいだに考えた。  ごみ箱の底が、相藤の頭上からふりおろされて、彼女の頭上にふりおろされるまでの刹那《せつな》に。  そして、どんという何かがぶつかる音。 「文ちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》か!」  相藤は、体当りで突《つ》き飛ばされていた。流が駆《か》けこんできたのだ。 「ぎりぎり間に合ったかな」  好戦的な笑みを浮《う》かべて、彼は助け起こそうと手をさしのべた。けれど、文子は頬《ほお》を赤らめて顔を横に向けた。そのままで首をふりながら立ち上がる。  別に、流が嫌《きら》いなわけではない。どうしてもこうなってしまうのだ。手紙は、面と向かって話しにくいことを記すことが多い。だから、文子は、普通《ふつう》の言葉を使うなら、面と向かっては何も話せないように生まれついてしまった。  立ち上がった文子は、ちらりと相藤を見た。彼は、倒《たお》れてもがいている。その両目には、いちょうの葉が張りついている。  きつく結ばれていた文子のくちびるが、ふわりとゆるんだ。 「へぇ、文ちゃんでも彼氏のことになると、そんな笑い方するんだ」  かなたが、戻《もど》ってきていた。文子が、顔を真っ赤にしてうつむく。 「危ないっ!」  その彼女の肘《ひじ》を、流が掴《つか》んで引き寄せた。何も見えなかった。何も起こらなかった。ほんのわずかに、そこの風景がかすんだのみ。  それはようやく、自分が警戒《けいかい》すべき対象が誰《だれ》だったのかを悟《さと》ったらしい。ここまでそれが流れてきたのは、妖怪《ようかい》としての未覚醒《みかくせい》の本能だったのか。妖怪は妖怪を呼ぶという。特に似た資質のもの同士。 「妖怪でも、直撃《ちょくげき》されると危険だよ。想《おも》いの産物のぼくたちが、言葉の意味を失うとどうなるのかな?」  流のふところから、フライディ・ナイトの声が聞こえる。彼の言葉に、誰《だれ》も答えない。恐《おそ》ろしすぎる質問だから。 「どうやって倒す? その兄ちゃんの携帯《けいたい》にとり憑《つ》いてんだろ?」 「それを壊《こわ》しても、またどっかに行っちゃうだけさ。ま、ここは、文子さんにまかせるんだね」  フライディ・ナイトが言った時、誰の耳にも届かないほどの小さな声で、文子が言った。 「……もう終わってる、って」  かなたの鋭《するど》い耳は、文子の小さな呟《つぶや》きを捉《とら》えていた。 「名前がないもの。正体がわからないものだから恐《おそ》ろしい、そうなんだよね? だから実体もないんだ。文ちゃんは……」  かなたも流も、地面を見た。  大地に、枯《か》れ葉《は》を使って、巨大《きょだい》な文字が描かれている。  文子の妖怪としての能力。それは言葉と書物にかかわること。書かれえなかった、発しえなかった言葉をかわって記述すること。記述することによって、現実を規定すること。名をつけることによって、恐怖の実体を看破《かんぱ》すること。言葉の力を信じること。  それは本来なら、彼女の店 <稀文堂> でしか使えない妖術だ。けれど、今は彼女の恋人《こいびと》が協力してくれていた。  地面に、樹齢《じゅれい》百歳を越《こ》えるいちょうが、公園に集まる人々に愛されて意識を持った彼が、その妖術を使って木の葉をあやつり、二つの漢字を書き上げていた。  今、実体なく動く『意味をかき消すもの』の名を。  ただ、名づけられただけではない。それだけなら、フライディ・ナイトにも可能だった。  だが、今、それは記録された。 「お前の名は、 <雑音《ノイズ》> だ」  フライディ・ナイトが繰《く》り返す。そして、実体を持つ。  相藤のふところから、ぽとんと何かがころげ落ちた。携帯電話だ。それには人形のように小さな手足が生えている。 「悪いけど……つぐないはしてもらうぜっ」  流が、大股《おおまた》で近づいた。逃げようとする妖怪携帯電話の上に、彼の大きな足がゆっくりおろされ、そして踏《ふ》み潰《つぶ》した。 「一件落着、かな?」  かなたは、公園のあたりを見回した。人間たちは、まだ正気を取り戻《もど》していないが、それも時間の問題だろう。 「あれ、文ちゃん、どこ行くの?」  文子は、何事もなかったかのように歩き出している。いちょうの木の根元に腰《こし》をおろして、本を広げた。視牌をそこに落としたまま、もごもごとした声で答える。 「デートの続き」  文子は、ゆったりと背をいちょうの幹《みき》にもたれかけさせた。 「そういえば、彼氏の名前、なんていうの?」  かなたが、いたずらっぽい表情で訊《たず》ねる。だが、文子は、静かに首を左右に振《ふ》っただけだった。  まだ、二人は、一言もかわしたことがない。 [#改ページ] [#ここから5字下げ]  公園ですっかり疲《つか》れもとれたようです。  ふたたび、目的地に向かって歩きだしましょう。もう、ずいぶんと時も流れてしまいました。  いつの間にか、また違《ちが》った雰囲気《ふんいき》の通りに入りこんでしまっています。  くすんだ写真が貼《は》られた立て看板、はがされたチラシの跡《あと》がいっぱいの電話ボックス、電源を抜《ぬ》かれた電飾《でんしょく》看板。まとめて捨てられたポケットティッシュが、ごみ箱からはみ出しています。  眠《ねむ》っているというより、朽ち果てたような町並み。  けれど、あと数時間もすれば、店々に明かりがともり、街は生気を取り戻《もど》すでしょう。酒場に風俗《ふうぞく》店、ゲーム喫茶《きっさ》……。  おや、ゲームセンターは、既《すで》に活気があるようですね。ちらりと覗《のぞ》いてしまいます。  何人かの若者たちが、ダンスゲームに興じていました。一人でボクシングにはげんでいるOLや、何度も何度もコインを景品カプセルに投入しているカップル。  ゲームセンターの人気機種もずいぶんさまがわりしたようですが、相変わらず生き残っている定番もいくつか。シューティングにアクション、それから麻雀《マージャン》。休憩《きゅうけい》中の営業マンといった風情《ふぜい》の男性が、真剣《しんけん》な表情で画面の中の女の子を脱《ぬ》がせていました。インターネットの出会い系サイトで知りあったという設定のようです。いやはや、ほんの数年前には、誰《だれ》も考えつかなかった設定ですな。ちょっと、生々しすぎやしませんか。  ゲームセンターを出て、しばらく歩いて行くと、今度は雀荘《ジャンそう》がありました。生身の人間同士が戦うための場所です。今の日本で、もっとも多くの専門誌と戦術指南書が出ているゲームは、麻雀かもしれません。  そういえば、インターネットが、まだまだ一部の人のものだった頃《ころ》に……。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第三話  未完成方程式  清松みゆき   1.麻雀荘 <みどり>   2.WINS後楽園   3.BAR <うさぎの穴>   4.悩める友   5.確率を友として   6.ゲームの理論   7.算の眼鏡 [#改ページ]    1 麻雀荘 <みどり>  部屋《へや》は、喧騒《けんそう》と煙草《たばこ》の煙《けむり》で満ちていた。いつもこうなのだろう。天井《てんじょう》、窓枠《まどわく》、すべてが黄色を通り越《こ》して茶色に染まっている。空調ファンは唸《うな》りをあげて自分の存在をアピールしているが、それでも煙草に弱い人間がうっかり踏《ふ》みこもうものなら、喉《のど》を押《お》さえてケホケホとやり始めて不思議ではない。  いくつものテーブルが並び、それぞれに人が座している。全員が男。中でも背広姿が多い。ただ、その着こなしには緊張感《きんちょうかん》がまったくといっていいほどない。  仕事のうさをちょっとした賭《か》けごとで紛《まぎ》らわせようと集まった、仕事帰りのサラリーマンたち。ガチャガチャとプラスチックの麻雀牌《マージャンパイ》を扱《あつか》う音、ポンだのチーだのいう掛《か》け声《ごえ》。それぞれのゲームに集中していなければ、雑音を通り越して騒音《そうおん》に近い。 <みどり> は、とある雑居ビルの二階と三階に店を出していた。  ここは、そのうちの二階。表の看板にはこうある。 「お一人様で遊べます」  麻雀は四人で戦うゲームだ。人数が揃《そろ》わなければ遊ぶことができない。  この看板は、一人でふらっとやってきて、見ず知らずの人間とテーブルを囲み、麻雀を打てることを表わしているのだ。フリー雀荘《ジャンそう》と呼ばれる店である。ちなみに三階は「四人様専用」とある。仲間が連れ立ってやってきたときにはこちらを使えということだ。  看板にはこうもある。 「風速1メートル」  本来、日本では、公営を除けばギャンブルは違法《いほう》である。だが、家族麻雀ででもなければ、賭けない麻雀を打つ人間がどれほどいるだろう? ゆえに、賭けないフリー雀荘などほとんど存在しない。 <みどり> は、隠語《いんご》——といっても、麻雀を打つ人間なら誰《だれ》でも知っているが——によって、どれほどの単位でお金をやりとりするかを示していた。  風速1メートルは、麻雀での得点十点が一円であることを表わす。これが、警察が黙認《もくにん》する目安と言われている。たいていは、多くとも一晩に一万円程度の振幅《しんぷく》ですむ。  そして、一時間あたり六百円の場代を <みどり> に払《はら》っておしまい。トントンですめば、飲み歩くよりは安上がりな娯楽《ごらく》。  そう、たいていの人間にとっては、それは娯楽なのである。だが、中にはそうでない人間もいる。  たとえば、窓際《まどぎわ》に近い席の赤いチェックのシャツの青年を見てみればいい。今どき珍《めずら》しいべっこう製の太いフレームの眼鏡《めがね》をしきりに上げ下げし、不機嫌《ふきげん》そうな表情を隠《かく》そうとしていない。  腕《うで》を伸《の》ばし、二段に積まれた牌山から勢いをつけて一枚を引いてくる。 「ちっ」  役に立たない牌だったらしい。青年は小さく舌打ちすると、それをそのまま表にして卓上《たくじょう》に置いた。 「ロン!」  青年の正面に座《すわ》っていたサラリーマン風の男が大きな声をあげた。それでアガリという宣言である。  サラリーマンは自分の手牌を表にする。そして、青年が捨てた牌を加えれば、それがちゃんと完成形になっていることを明らかにする。 「リーチ一発裏ドラ2丁、マンガンだ」  役と得点の宣言。マンガンは八千点。高得点だ。 「しかたない」  得点を示す点棒を四本——一本は五千点、三本は千点——サラリーマンに渡《わた》しながら、青年は呟《つぶや》く。 「悪いね、兄ちゃん。バカヅキで」 「まったくだ」  席を同じくしていた中年の男が相槌《あいづち》を打つ。  事実、サラリーマンの役は偶然《ぐうぜん》の産物以外の何物でもない。最初からマンガンを目指したのではなく、たまたまそうなったのだ。 「またあんたの一位《トップ》かよ。三連続とは参ったな、こちとら大赤字だ」 「そっちの兄ちゃんも……」  もう一人、ポロシャツの男がべっこう眼鏡の青年に顔を向けた。 「ツイてないんだから、無茶な勝負はいけないよ」  確かに、青年は引いてきた牌を手牌として手もとに残し、代わりに別の牌を捨てることもできた。そうすれば、サラリーマンにアガられることはなかっただろう。  もっとも、そのときは自分もアガることはできなくなっただろう。引いてきた牌は青年にとってまったく役に立たないものだった。一枚でもそういう牌があればアガれない。麻雀はそういうゲームだ。 「ツキなんてのは結果論だ」  青年は押《お》し殺したような声で答える。 「確かに、今までこの人はツイていたし、僕《ぼく》はツイていなかった。だが、そのことは、次にもこの人がツイているかどうか、僕がツイていないかどうかには影響《えいきょう》しない」  青年は自分の捨てた牌——サラリーマンのアガリ牌——を指した。 「この牌を引いたのは、その人がツイてたからでも、僕がツイてなかったからでもない。偶然だ。結果によって、ツイてた人間とツイてなかった人間が出ただけだ。ここで僕が、引き上がっていれば……」  言いながら青年は自分の手を開けた。中年が「おっ」と声を上げる。青年の手牌はきれいな組み合わせを形作っていた。麻雀《マージャン》を知らなくとも、それが何らかの意味——すなわち、高得点に結びつく役——を持つことは類推できただろう。 「ハネマンだったな」  ハネマンはマンガンの一・五倍、一万二千点である。 「僕の逆転勝ちだった。きっと、あなたがたは『ツキが変わった』とか『そうそうバカヅキは続かない』とか、言ったはずだ」 「実際に勝ってから言いなよ」  勝ちを決めたばかりのサラリーマンは片肘《かたひじ》をついて、青年を睨《にら》みつけた。 「そういうのを半ヅキって言ってな。希望があるようでない。実は最低の流れなんだぜ」 「結果論だ」 「まだ言うかい? なら、もう一勝負といこうじゃねえか。まだ金《タマ》はあるんだろ?」 「いいとも」  そして、青年はもう一度の勝負に挑《いど》んだ。    2 WINS後楽園  あまりに多くの靴《くつ》がうろうろと動き回り、コンクリート製の床《ゆか》はほとんど見えない。だが、あえて目を転じれば、そこに数々のゴミが散らばっているのがわかる。新聞の切《き》れ端《はし》、煙草《たばこ》の吸いがら、そして言わずもがなのはずれ馬券。  広いフロアに煙《けむり》が立ちこめている。やや掘《ほ》り下《さ》げになっているものだから、一度吐《は》き出された煙はなかなか逃《に》げていかない。  男たちの視線はずらりと並ぶ小さなモニターに集中している。煙に霞《かす》んで見えないのでは? という不安は的外れらしい。  おりしも最終コーナーを回って、馬の一団が最後の直線に入ってきたところだ。華《はな》やかな勝負服を身につけた騎手《きしゅ》たちは、ある者は手にもった鞭《むち》を振《ふ》るい、ある者は両手で必死に手綱《たづな》をしごいて馬の首を上下させる。  馬群が横に広がる。極端《きょくたん》なスローペースだったため、今まで一・五キロを走ってきて、脱落《だつらく》した馬はいない。ほとんど差がついていない。陸上の一〇〇メートル走のスタート直後を見ているかのようだ。  一番内側を回った二頭が抜《ぬ》け出した。騎手が鬼《おに》のような表情で手綱をしごき、鞭を振るう。  おおお、というざわめきが広がる。 「アクティブキングだあ?」  モニターを見ていた男たちの一人が声をあげる。 「こりゃそのまま決まるぜ。2—9だ」  隣《となり》の男が答える。 「冗談《じょうだん》じゃねえよ。ルーラーはどうしたんだよ、ルーラーシップ」 「だめだ。馬込みの中でもごもごしている。前も横もつっかえて出てこれねえ」 「鳥越《とりごえ》の下手《へた》くそめ」  男は頭を掻《か》きむしって騎手を罵《ののし》った。  抜け出したうちの一頭——アクティブキング——は十四頭中、八番人気。その馬券を買っている人間は二パーセントと少しだけ。  あろうことか、それが今、競《せ》り合いながら、とうとう半馬身前に出た。  モニターを見つめる大半が、この男のごとく表情を強《こわ》ばらせていた。  その中で、ほとんど一人だけがほくそ笑《え》みを浮《う》かべてそれを見守っていた。  赤いチェックのシャツにべっこう眼鏡《めがね》の青年が。 「来て当たり前さ。データはそう言ってたんだ。このレースはスローになる。なったら、あいつの瞬発力《しゅんぱつりょく》が生きる」  本当は大声で自慢《じまん》したいところを、小さな呟《つぶや》さで我慢しながら、青年は胸ポケットに入れた馬券の感触《かんしょく》を確かめた。そこには、アクティブキングの単勝馬券がある。先頭でゴールしてくれれば、二千円が七〜八万円の金に化ける。 「差せ!」  誰かが声をあげた。一番内側から必死に半馬身差を追うスパイヘブンへの応援《おうえん》だろう。スパイヘブンは、このレースでは図抜けて強いと評判の馬。倍率一・五倍の一番人気。単勝馬券の売り上げの半分を集めている。  青年はもう一度胸ポケットの感触を確かめる。  スパイヘブンとアクティブキングの連勝馬券も買っている。二頭で一着二着になりさえすれば、千円が二万弱になる。こっちのほうは、アクティブキングが前でなくともかまわない。青年自身もまた、スパイヘブンの強さを認めているがゆえの一種の保険だ。  だが、できれば、このままで決まってほしい。十万円なら大儲《おおもう》けだが、二万円では、今までの負けを取り返すだけだ。 「あっ」  青年は思わず、声をあげた。  同時に、そこここから「おお」という声が巻き起こり、唸《うな》りにも似たざわめきを引き起こす。  戦闘のアクティブキングが、ぐらりと内へかしいだのだ。 「バカが! ヨレやがった」  青年の隣《となり》で、作業服の男が怒《いか》りの言葉を吐く。  ヨレる。バテてよろけたためか、あるいは、生来ひねくれているのか、馬がまっすぐに走らない状態。  斜《なな》めになったアクティブキングの身体《からだ》が、後ろから走ってきたスパイヘブンの正面に切りこんだ。  たまらず、スパイヘブンの騎手《きしゅ》は手綱を思いきり引き絞《しぼ》った。時速六十キロで疾走《しっそう》する馬どうしが接触したらたまったものではない。その勢いで転倒《てんとう》したら、騎手も馬自身も、生命に関《かか》わる。  スパイヘブンは上体を上げ、後ろ足だけで竿立《さおだ》ちになりかけた。その前で、アクティブキングはかろうじて向きを戻《もど》す。  そして、まっすぐ走ることを思い出して先頭でゴールを駆《か》け抜けた。だが、体勢を崩《くず》し事故にも怯《おぴ》えた本命馬《スパイヘヴン》は、そのままずるずるとスピードを落とし、追ってきた馬群に呑《の》みこまれた。 「何だありゃ!」  怒声《どせい》があちらこちらで響《ひび》く。スパイヘブンの馬券を買っていた人間たちのものだろう。  それ以上に青年の顔も紅潮していた。  モニターは着順掲示板を映している。その一着は9番、アクティブキングの番号だ。だが、同時に青いランプとともに「審《しん》」という文字が光っている。 「ただいまのレースは、最後の直線走路で2番スパイヘブン号の進路が狭《せま》くなったことについて審議いたします。結果が出るまで、お手持ちの勝ち馬投票券はお捨てにならないようにご注意願います」  感情を無理に押《お》し殺したような場内アナウンスの声が、モニターを通じてWINS内にも流れた。  JRA(中央競馬会)は「公正競馬」をスローガンにしている。他の馬の進路を妨害《ぼうがい》するような行為《こうい》はご法度《はっと》だ。そのようなことが起こった場合、その馬は進路を妨害した馬の次に着順を下げられる。  青年は胸ポケットから馬券を取り出すとぐしゃぐしゃに丸めた。まだ審議は続いているが、これほど明白な進路妨害はめったにない。  果たして、アクティブキングはスパイヘブンの後ろに降着になった。スパイヘブン十一着、アクティブキング十二着が最終結果である。    3 BAR <うさぎの穴>  古いピアノが演奏者もなしに優《やさ》しい音色を奏《かな》でている。カウンターの向こうでは、白いシャツに蝶《ちょう》ネクタイの紳士《しんし》がグラスを磨《みが》いている。  少ないテーブルの一つに、二人。  BARの客としてはいささか不似合いに見える。一人はトレーナーにジーンズ、やや小太りの青年。もう一人は子供っぽいブラウスとスカートの少女。配色は白と黄色。  少女は一|冊《さつ》の文庫を読み耽《ふけ》っている。オレンジ色の背に『DIABLE』とタイトル、浜本《はまもと》弘《ひろし》という著者名が見える。その下には丸山《まるやま》バッシュ文庫とある。  青年は難しい顔をしてカードの山と格闘《かくとう》している。カードには例外なく美しいイラストが描《えが》かれている。それらのカードをファイルケースから何校か抜《ぬ》き出したり、あるいは、テーブルからケースに戻《もど》したり、飽《あ》きることなくその作業を繰り返していた。  少女の名は井神《いかみ》かなた。青年は高徳《たかとく》大樹《だいき》。  こうして見ている限り、誰が信じるだろう? 文庫本を読み耽ったり、ゲームのためにカードの準備をするこの二人が、ともに人間ではないことを。妖怪《ようかい》と呼ばれる人外の存在であることを。  唐突《とうとつ》に少女——かなた——が顔を上げた。 「ねえ、�ラプラスの魔《ま》�って知ってる?」 「知ってるよ」  大樹青年は顔も上げずに答える。 「そうか」 「数学者ラプラスが考えた、無限の知覚力と無限の計算能力を持つ架空《かくう》の存在。宇宙に存在するあらゆる粒子《りゅうし》の位置と速度を知り、その運動をすべて計算できるがゆえに、未来をも予測できるもの。そうだろ?」 「うん」 「量子論で否定されたけどね。その本にもそう書いてないかい?」 「そんな感じだけど……。読んだことあるの?」 「あるよ。もう何年も前の小説だろ、それ。コンピュータ・ゲームのノベライズだ」  大樹はまだ顔を上げない。カードの山とにらめっこを続けている。 「そ・ん・な・に・おもしろい?」  かなたは文庫を閉じると、テーブルの上に両手を突《つ》いた。上体をぐっと大樹に近づける。 「まあ、ね」  ここにいたって、大樹はようやくカードの束をかたづけ始めた。気を遣《つか》ってというより、かなたに散らかされたくないからだ。 「�ラプラスの魔�にでもかかったら負けちゃうでしょ、そんなゲーム」 「だから、否定されているって」 「もし、いたとしてよ」 「そりゃ、ね。でも、いないんだって。無限の計算能力のほうはともかく、無限の知覚力というのは、不確定性理論の前にはナンセンスなんだ」 「じゃ、その無限の計算能力だけでもいいや。そっちだけでも、ゲームなんて楽勝でしょ?」 「あ、その考え、間違《まちが》い」  大樹は答えた。しごく真面目《まじめ》な顔だ。 「囲碁《いご》や将棋《しょうぎ》やオセロなら、�ラプラスの魔�は無敵だけどね。こいつはそうはいかないよ。不完全情報ゲームだから」 「不完全……何だって?」 「不完全情報ゲーム。情報の一部が参加プレイヤーに隠《かく》されているゲームのことだよ。こいつは、相手の手の内は見られないし、自分が次に引くカードもわからない。つまり、情報が完全じゃないわけ。囲碁や将棋はこういう乱数の要素はないだろ? 盤面《ばんめん》はどちらのプレイヤーにも見える。相手の指した手も見える。だから、あれは完全情報ゲーム」 「ふうん」 「いくら計算能力が高くても、不完全情報ゲームには必勝法はないからね。だから、将棋と違《ちが》ってビギナーズ・ラックなんてものがありえる」 「それでも、無限の計算能力があれば勝てるでしょ? 無限よ、無限」 「無理だって。勝率は上げられるけど、全勝はできないよ。たとえば、じゃんけんで全勝できるかい?」 「無理……かな?」 「ああ、無理だ。僕《ぼく》の手の出しかたを読まない限りね。で、僕は絶対に読ませないやりかたを知っている」 「でも、じゃんけんでも強い人っているよ」 「相手の心理を読むのに長《た》けた人はね。それに、グーチョキパーの順番が刷りこまれていて、ついその順で出す癖《くせ》のある人は多いからね」 「へー」 「『最初はグー』ってよくやってるけど、あれは、本来イカサマのための技《わざ》なんだよ」 「そうなの?」 「やってみるかい? 最初はグー……」 「……ジャンケンポン」  テーブルの上で二人の手が二度、勢いよく動く。最初はグーどうし、そして二回目は。  小さな白い手がチョキ。太い手がグー。 「言ったばかりなのに」  大樹が笑いを噛《か》み殺しながら言った。 「グーチョキパーの順で出す癖のあるやつは多いって。最初はグーだから、次はチョキかい?」  かなたがむっとむくれる。これが大樹の悪い癖だ。 「もう一回」 「いいよ」  ふたたび、テーブルの上で二人の手が動き……。  結果、かなたはパー、大樹はチョキ。 「読みやすいなあ。僕が同じことするわけないだろ」  かなたの表情がますます険悪になる。 「もう一回」 「やめとこう。次は勝てる自信がない」  大樹はあっさりと言ってのけた。 「もうかなたが何考えているか読めないからね。そうなると勝てる確率は三分の一だ」 「勝ち逃《に》げ?」 「たかがじゃんけんだろ」  その「たかがじゃんけん」で、自分が勝ち誇《ほこ》っていたことを大樹は棚《たな》に上げた。 「じゃんけんで一番強い戦法は、何を出すかランダムに決めることさ。出す手がまったく読めない相手には、どうやっても三分の一でしか勝てない。そして三分の一があいこ、残り三分の一が自分の負け」 「うーん」 「ところが、この最強のランダム戦法は、最弱の戦法でもある」 「どうして?」 「とにかく、グーばっかり出す人間というのを仮定してみよう。なぜそうするかというのは置いておいてね。その人間とじゃんけんするとき、かなたならどうする?」 「パーばっかり出す」 「そう。それで全勝だ。グーばっかりは、すごく弱い。最弱の戦法。ところが、ランダム戦法はこれとも同じ強さしかない。三分の一で勝って、三分の一で負けて、三分の一であいこ。グーチョキパーをランダムで出しちゃうんだもの」 「何か、狐《きつね》につままれたような話ね」  化《ば》け狸《だぬき》の台詞《せりふ》とも思えない。 「そう。どんな戦法に対しても五分の戦いをするのがランダム戦法。だから、最強にして最弱」 「そんなこともあるんだ」 「それが不完全情報ゲームの面白《おもしろ》いところさ。もっとも、�ラプラスの魔《ま》�は、ランダムなんて認めないけどね。すべてのことを計算でわかっている建て前だから」 「やっぱり、無理なのかな。計算で予測するのって」 「根本のところでこの世界は無作為《むさくい》に出来ているんだもの」 「けれど、そうでないところもあるだろう」  グラスを拭《ふ》く手を休め、カウンターの向こうから、マスターが話に割れこんできた。かなたの実父である。つまり、彼もまた狸の妖怪《ようかい》だ。 「ミクロのところでは不確定でも、マクロに見れば確定していることはあるんじゃないか。たとえば、大樹くん、きみが流《りゅう》と駆《か》けっこをしたとして、どうなる? その結果も予測不能かい?」 「厳密には」  大樹はしれっと答えた。現実には半人|半龍《はんりゅう》にしてスポーツマンの流に、大樹が勝てる道理はない。 「負《ま》けず嫌《ぎら》い」  かなたがぼそっと呟《つぶや》く。 「流がこけるかもしれないじゃないか」  大樹はムキになって答えた。 「一〇〇パーセントの予測なんてありえないさ。そりゃね、観測や計算で精度をあげることはできるさ。でも、天気予報はいつまでもはずれ続けるものなんだよ」    4 悩める友 「おい、神河《かみかわ》。神河ってば」  青年は頭を掻《か》いた。夜となればそろそろ風も涼《すず》しさを増してきたこの季節にTシャツ姿である。厚い胸がシャツを押《お》し上げ、筋肉のラインをあらわにしている。  地面に倒《たお》れているほうもまた若い。同年代だろう。こちらは、それより一回り二回りは楽に小さく見える。  赤いチェックの長袖《ながそで》シャツ。 「何が飲めるようになっただよ。ボトル半分で潰《つぶ》れやがって」  Tシャツの青年は、再度友人を引き起こしながらぼやいた。酔《よ》い潰れて身体《からだ》のきかなくなった人間は重い。単純にその体重が荷物になる。五〇キロ、六〇キロというのがどれほどの意味を持つのか、人に思い知らせる。  それでも青年は左手一本で相手の腕《うで》を掴《つか》み、えいやと持ち上げた。  そのまま背に載《の》せる。 「店から出た途端《とたん》にこれってのはないぜ」  青年はきょろきょろと公衆電話を探す。店の中で倒れてくれたのなら、そんな必要はなかったのだが。店を出るまではしっかり歩いていたのだ。それが、外に出たとたんにこれ。もう少し早く気づいていれば、と悔《く》やまれる。  酔っ払《ぱら》いの中にはよくあるケースとしたり顔で言えるのは、実際に直面した経験のない人間だけだろう。  ゴウゴウといびきすらかき始めた友人を背に、青年は歩き始めた。その状態で、自身もかなり飲んでいるはずなのに、こちらの足取りに不安はない。  首の下にべっこうフレームの眼鏡《めがね》がぶら下がっている。店内でガンガンとテーブルに頭つきを始めたときに、友人から取り上げたものだ。 「やれやれ」  ようやく駅が見えてきた。青年はとりあえず駅前の公衆電話に飛びつく。 「……れい子か? 俺《おれ》。……ああ、神河のやつがさっさと潰れちゃってね。……ああ、そうするよ。悪いな」  自宅に電話を入れ、駅へ向かう。その背ではチェックのシャツの青年が、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた苦しげな表情で眠《ねむ》っていた。 「……久しぶりですねえ」 �教授�は、ぼそりと呟いた。  確かに、もう半年以上会っていない。だが、その台詞《せりふ》は本当に再会したときのためにとっておくべきだろう。  待ち人はまだ姿を見せず、テーブルには彼一人しかいない。目の前にはとうに飲み干されたコーヒーカップ。  やぼったいコートは羽織ったまま。丸い小さなサングラスもはずしていない。さすがに山高帽《やまたかぼう》は脱《ぬ》いでいたが、無雑作に隣《となり》の椅子《いす》に置いてある。  いささかファッションセンスに欠けるのはしかたない。何しろ、長いこと地中に潜《もぐ》って生きてきたのだから。  化《ば》け土竜《もぐら》。それが、教授と呼ばれるこの男の正体だ。 「遅《おそ》いですねえ」  顔を上げ、ちらり、と壁《かべ》に掛《か》かった時計を見る。ひとりごとは教授の癖《くせ》だ。隣に座《すわ》ろうものなら、ぼそぼそという呟きをえんえん聞かされることになるだろう。  こんこん。  空のカップを指で弾《はじ》く。  こんこん、こんこん。  調子に乗って弾き続けている。 「ふんふん、なるほど」  領《うなず》いている。ウェイトレスたちが、薄気味悪《うすきみわる》そうに見ているが、教授は気にした様子はない。すっかり、カップ叩《たた》きに熱中している。 「はっはあ、そうですか、そんなことが」  教授はコーヒーカップの歴史をさかのぼっていた。どんな人間がそのカップを使ってきたのか、どのように扱《あつか》われてきたのか。どこで生まれたのか。  物品を見て、その来歴を探《さぐ》る。彼の得意とする妖術《ようじゅつ》の一つである。だからといって、いきなりそんなことを始めるとは。よほど退屈《たいくつ》がきらいなのだろう。 「あ、あのう」 「えっ!?」  不意に声をかけられ、教授は振《ふ》り返った。  その眼前でウェイトレスの一人が、怯《おび》えて立ちすくんでいる。  それはそうだ。不気味な客に、ひょっとしたら追加かもと思い、勇気を持って訊《き》きにきたというのに。 「ご、ごめんなさい。脅《おど》かすつもりはなかったんですけど」  それでも、頭を下げる。ウェイトレスの性格なのか、店の教育が行き届いているのか、いずれにしても今どき珍《めずら》しい。 「こ、こちらこそ」  教授はもごもごと言いながら頭を下げた。振り返ったときの自分の声がとんでもなく大きかったことを自覚していた。 「あの、それで、お代わりでしょうか?」 「ああ、じゃあ、もう一杯《いっぱい》だけ」  教授はすっかり恐縮《きょうしゅく》して頷いた。ウェイトレスはほっとしたように戻《もど》っていく。  きまりの悪さを感じつつ、教授はもう一度掛け時計に目をやる。待ち合わせの時間から二十分が過ぎようとしていた。 「悪い、先生、遅《おく》れちまった!」  ようやく、その男がやってきた。教授は心底ほっとしてため息をついた。 「神河|昇一《しょういち》」  教授をこの喫茶店《きっさてん》に呼び出した体格のいい青年は、連れてきたもう一人をそう紹介《しょうかい》した。赤いチェックのシャツにべっこうの眼鏡《めがね》。背の高さや肉づきに特徴《とくちょう》はない。つまり、同行者の隣ではごく小さく見える。 「はじめまして」 「どうも」  べっこう眼鏡の青年はぼそりと呟《つぶや》くように答える。  教授はその青年を見る。やや暗い店内、しかもサングラス越《ご》しだが、真の闇《やみ》をも見通す化け土竜には関係ない。むしろ、彼にとって光は少なければ少ないほどいい。  顔はむくみ加減で、顔色もよくない。少々アルコール臭《しゅう》がする。といっても、飲んできた直後のものではない。おそらく、前の夜に深酒をしたのだろう。Tシャツの青年、野島《のじま》敏彦《としひこ》につきあわされたのだろうか? だったら、たまったものではない。ボトル二本空けて、はじめて酔《よ》いを意識するという強者《つわもの》だ。 「高校の同級生でね」  野島が口を開く。それにしても、季節を探ろうとする人間を悩《なや》ませる光景だ。テーブルをはさんでやぼったいコートとTシャツが向かい合っている。 「やっぱり野球部ですか?」  教授は尋《たず》ねた。野島はかつて高校野球のエースだった。その後、プロ球団に入団したものの、鳴かず飛ばずで引退している。今は、都内のスポーツジムで働いているはずだ。そういえば、Tシャツのロゴマークがそれらしいものに見える。 「そうだよ」 「補欠でした」  よく通る声と、力の感じられない声が連続する。 「はあ……なるほど」  二人の体格差を見れば、すんなり納得《なっとく》してしまう。赤いチェックシャツの神河にしても悪い体格とは言わないのだが——野島がよすざるのだ。なんだか、前よりさらによくなっているような気がする。働きながら、自分もトレーニングを続けているのだろうか? 「それでも、普通科《ふつうか》のくせにあの厳しい練習に最後までついてって、それで成績|優秀《ゆうしゅう》だったんだぜ」 「二軍は一軍ほど厳しくなかったよ」  教授は、野島の昔話を思い出した。確か、彼の高校は普通科と体育科の二つがあったはずだ。体育科はこれぞと思う中学生を、学業成績無視、授業料|免除《めんじょ》で引っ張り、創立五年を待たずして、いろんな競技で県のトップクラスにのしあがったと。 「そんなに、えーっと、アレすることはない」  アレではわからない。 「謙遜《けんそん》なんてしてないよ」  神河が野島の言いたかった言葉をさらりと継《つ》いだ。 「ずいぶん仲がいいようですね」 「うん。こいつは、いいやつでね」  教授の台詞は野島に向けたものではなかったのだが。 「え、ええ。そうでしょうね」  教授は愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべて答える。人が目の前にいるのに、ひとりごとはよくない。 「でもよ、確かに野球は俺《おれ》のほうがうまかったが、勉強じゃこいつ、すごかったんだぜ」 「それほどじゃないよ」 「それほどじゃないって、K大だぜ、K大」  野島は都内の有名私立大学の名を挙げた。 「中退だよ」 「もったいないよなあ。なあ、先生」  確かにもったいない。この学歴|偏重《へんちょう》の日本で。 「もったいないぜ、うん。今ごろは弁護士の卵だったろうに」  野島は腕《うで》を組んで一人頷《うなず》いている。 「キミに言われることはない」 「俺は故障でクビだ。かってにやめたわけじゃない」  おや? 教授は二人をもう一度見直す。  野島にとって、故障引退は大きな心に傷のはずだ。現役生活の五年間、そして引退後の一年間、彼を苦しめ続けてきた。  それをサラリと茶化すことのできる人間がいるとは思わなかった。 「それで、こいつ、大学やめて何やってたと思う?」 「さあ」  わかるわけがない。 「プロ雀士《ジャンし》を目指していたんだと」 「はあ?」  教授はその言葉を一瞬《いっしゅん》理解できなかった。 「プロの麻雀《マージャン》打ちだよ」 「麻雀のプロ、ですか? そんなものがあるんですか?」 「あるんだと。でもなあ」  野島は難しい顔をしている。 「そうそう食える職業には見えないんだけどな。契約金《けいやくきん》もなければ年俸《ねんぽう》もない」 「そりゃ、プロ野球のようにはいかないよ。メジャーじゃないから」  神河は神経質に眼鏡を上げ下げした。 「でも、将棋《しょうぎ》だってゲームじゃないか。プロ棋士がいるなら、プロ雀士がいてもおかしくないだろ」 「あの、それでわたしに何を?」  教授はおずおずと切り出した。やめろと説得しろというのだろうか? 「本当ならやめさせたいんだけど、こいつは昔から頑固《がんこ》でね」  野島は苦笑いを浮《う》かべる。 「こうと決めたら一歩も引かない。それで、野球部にずっといたようなもんだ。努力は必ず報《むく》われる、が信条だってね」 「そうですか」 「ところがだ、こいつ、最近勝てないんだと」  野島は両手を広げた。 「どうも幸運に見放されたみたいでね」 「運なんてのは存在しないよ」  神河はむっとした顔で野島を見上げた。 「けど、お前、最近ボロボロだって泣いてたじゃねえか」 「結果として、そうなっているだけだよ」 「それにしても、大変だろ? こいつさ、今は賭《か》け麻雀で食ってるんだ」 「はあ……」  ますます教授の知らない世界に入っていく。 「その辺のフリー雀荘《ジャンそう》で、サラリーマンのおっちゃん相手に日銭《ひぜに》稼《かせ》いでね。それがぱったり勝てなくなったもんだから、大変なんだよ。稼ぐどころか、どんどん金が減っていく。あちこちの雀荘に借金こさえちゃってね」  なじみ客であれば、思わぬ負けで手持ちの現金がなくなってしまったときに、雀荘が(主人の裁量で)立て替《か》えてくれることもあるだろう。  だが、それがいつまでも返せなければ、何が起こるか? 信用をなくし、店へ出入りすることができなくなる。 「それは大変ですねえ」 「ちょいと前なら、俺《おれ》にも余裕《よゆう》はあったんだが、今はなくてね。契約金の残りは、みんなれい子の借金に当てちゃったから。あいつにも仕事はやめさせたし、見習いインストラクターの稼ぎじゃあ、二人食ってくだけで精一杯《せいいっぱい》だ」 「あの……わたしは貧乏《びんぼう》ですよ」  まさか、借金の相談では? 教授は緊張《きんちょう》して肩《かた》を強《こわ》ばらせる。 「ああ……うん、先生に借りるという手もあったか」  冗談《じょうだん》じゃない。 「でも、そんなことより、先生にしか頼《たの》めないことを頼みたくてね」 「わたしにしか[#「しか」に傍点]? まさか……?」 「それかもしれないんだよ」  野島は声を落とした。  教授は、手に汗《あせ》がにじむのを感じた。コートを羽織ったままでさえ感じなかった汗を。  野島は、教授の正体を知る数少ない「人間」の一人だった。  重い心を担《かつ》いだまま、教授は重い扉《とびら》を押《お》し開けた。 「おや、教授お久しぶりですね」  マスターは、その言葉とともに教授を迎《むか》え入れた。 「どうも」  教授は頭を下げる。 「どうしたんですか? 難しい顔をして」 「何だか事件みたいなんですけどねえ……」  教授は精悍《せいかん》な顔の男が一人ショートホープをくゆらせているのを見つけ、そのテーブルに座《すわ》りながら答えた。烏天狗《からすてんぐ》と化《ば》け土竜《もぐら》。気が合っているのが不思議に見える友人どうしというのは、人間の世界に限ったことではないようだ。 「へー。何?」  事件と聞き、隣《となり》の席でかなたが身体《からだ》をねじ曲げて振《ふ》り返る。その向こうで大樹もまた上目遣《うわめづか》いに教授を窺《うかが》う。 「人に不幸をもたらすというのに心当たりはありますか?」  片肘《かたひじ》をつき、鋭《するど》い視線を向けて耳を傾《かたむ》けていた八環《やたまき》が、ずるっとその肘を滑《すべ》らせた。 「ありすぎるよ、教授」  苦笑いしながらボンボンとショートホープの箱を叩《たた》いて一本を取り出す。 「いや、殺すとか、怪我《けが》をさせるとか、そういうのじゃなくて、ですね。不幸にしちゃうんですよ。麻雀《マージャン》でアガれなくなるとか、競馬で負けてばっかりになるとか」 「妖怪とは関係なく、そういう人はいますよ」  やれやれとため息をつき、肩をすくめると、大樹は自分の作業に戻《もど》ってしまった。今日もまた、カードの山と格闘《かくとう》している。 「ギャンブルなんかにはまりこむ人間の気が知れないよ。カオスのことがわかってない……」  呟《つぶや》きが聞こえる。 「祟《たた》る、呪《のろ》う、というのはよく聞くからね」  カウンターからマスター。 「もう少し情報がないと」 「それがですねえ、なかなかしゃべってくれないんですよ」  教授は頭を掻《か》いた。 「本人が、運、不運なんてのは結果だ。偶然《ぐうぜん》が続いているだけだの一点張りで」 「はあ」 「たとえば、賭《か》け麻雀で連敗しているのは間違《まちが》いないんですが、どのくらい負け続けているのか、いつから負け続けなのか、教えてくれないんです」 「おいおい」  八環が煙草《たばこ》の煙《けむり》をぐっと吸いこみ、思いきりゆっくり吐《は》き出した。 「そいつは、本当に助けてもらいたがってるのか?」 「はあ」  教授はまぬけな相槌《あいづち》を打つ。 「頼まれたのは本人にというより、彼の友だちにですね」 「うーん」  八環の眉根《まゆね》がきゅうと寄る。 「よし」  出《だ》し抜《ぬ》けに、大樹が声を上げた。みんながさっと注目する。 「このデッキなら完璧《かんぺき》だ」  いそいそとカードの束をしまいこみ始めるのを見て、さすがに教授は表情を険しくした。 「大樹君、きみね」 「悪いけど、教授、僕らは人助けを商売にしてるわけじゃないんですよ」  大樹は帰りじたくを——あるいは、人間の友人とこれから一勝負かもしれない——続けながら、悪びれずに答える。 「ギャンブルで不幸だ、不幸だと泣いている人間の面倒《めんどう》なんて見てられませんよ。その裏にある確率や期待値のことを教えてやればすむことです。競馬にはまりこんで大損するなんて馬鹿《ばか》です。二五パーセントのテラ銭を取られて、勝てるわけがないんです。江戸《えど》時代にヤクザが開いてた賭場《とば》でさえ、テラ銭は一〇パーセントだったんですからね」  言い残し、大樹はさっさと、出ていってしまった。 「大樹の言うことにも一理あるな」  扉をまだ見続けている教授に、八環が声をかける。指にはさんだショートホープから紫煙《しえん》が天井《てんじょう》へゆらゆらと立ち昇《のぼ》っている。 「賭け麻雀にしろ、競馬にしろ、負ければ不幸になることがわかっている。それを承知で手を出しているんだから」 「問題は、妖怪の手によって結果が歪《ゆが》められているということなんですよ」  教授は八環に答える。 「本当に本当?」 「れい子さんのことを覚えてますか?」 「れい子? 誰《だれ》だっけ?」 「野島君のお嫁《よめ》さんです」 「野島……ああ、あの元プロ野球選手。そいつの彼女だったっけ。結婚《けっこん》したの?」 「ええ」 「……そうか。あの人は妖力を感知できましたね」  マスターがグラスを拭《ふ》く手をぴたりと止めた。 「ええ。神河君——今、困っている人の名前ですけどね——が、酔《よ》い潰《つぶ》れて野島君の家に泊《と》まったそうなんですよ。そのときにね、『感じた』らしいんですよ。野島君がわざわざわたしを呼び出したのも、彼女が熱心にそうしろと言ったからのようで」 「となると、信憑性《しんぴょうせい》が高いね」  好奇心《こうきしん》を刺激《しげき》され、がぜん、かなたが目をきらきらとさせ始める。 「とはいえ、やはりそれだけではどうにもなりませんな」  マスターが口をはさむ。 「教授、もう少し調べてみる必要があるんじゃないですか? せめて、その妖怪がどこにいるのか。それすらもわかってないでしょう?」 「ええ」 「そもそもどうやって、その神河君とやらに不運を負わせているのか。何か、繋《つな》がりを持たなけれは力は届きませんからね」 「教授の仕事だね」  八環はふうと煙を吐き出した。 「本人に当たっても期待|薄《うす》じゃ、無理やりにでも情報を取ってこなきゃ」    5 確率を友として  空は薄曇《うすぐも》り。星は空から姿を消している。月もない。ぽつりぽつりと街灯の光だけが地面を照らしている。  教授は、ゆっくりとその二階建ての木造アパートに近づいていった。コートの襟《えり》を立てているのは寒いからではなく、人目をはばかってのことだ。  窓明かりを確かめる。上下に六つずつ、十二の窓のうち、八つから明かりが漏《も》れている。まだ九時を回った程度。明かりのついた窓からは、ナイター中継《ちゅうけい》のTVの音や、子供の喧嘩《けんか》する声が漏れてきている。  教授はため息をついた。神河青年の部屋《へや》は昼のうちに確かめた。予定どおり、その二階の一室に明かりはついていない。今ごろは、野島のハイピッチにつきあわされて、かなり酔いを回らせているかもしれない。  だが、今晩もまた酔い潰れるとは限らない。電車のあるうちに自分の部屋に戻《もど》ってくる可能性は捨てられない。  やはり、今のうちに調べておくしかない。  ぎし。  脇《わき》につけられた階段に足を乗せた途端《とたん》、いやな音が立つ。 「壊《こわ》れないでくださいよ」  高所|恐怖症《きょうふしょう》である教授はつぶやく。たった数メートルの高さでも、下を覗《のぞ》くと怖《こわ》い。ふっと飛び降りてしまう自分を想像してしまう。教授は自分の暗視能力を少し呪《のろ》った。人間であるならば、夜の暗さの中で下がこうはっきりと見えずにすむのに。  不必要に手すりに身体《からだ》を預けながら、教授はそろそろと上っていく。これも怖い。うっかり透過《とうか》してしまったらどうしよう? 階段を上りきれば、神河青年の部屋は三つ目。手前の二つ、向こう隣《どなり》、三つの部屋すべてに明かりが点《つ》いている。下町の小さなアパートだ。近所づきあいという言葉が、ここでも死語になっているものか、はなはだ自信はない。 「難儀ですねえ」  自然、ひとりごとが多くなる。不安を紛《まぎ》らわせるために。  パキ……メキ。  そろりそろりと歩いているつもりなのに、まったく異なる音が足もとから返ってくる。昼に教えてもらったとき、名前を聞いて、酒屋のおやじが「あのボロアパートね」と答えたことが思い出された。  教授は扉《とびら》の前に立った。郵便受けに、マジックで「神河」と殴《なぐ》り書いてある。 「失礼しますよ」  左右を見て、人の目がないことを確かめて、教授は中に入った。ドアノブに触《ふ》れもせずに。  あらゆる物質を透過できる力を持つ教授に、鍵《かぎ》は不要だった。  神河青年の部屋はかなり散らかっていた。六|畳《じょう》一間の部屋中に、麻雀漫画誌《マージャンまんがし》が、ページを開いたままいくつも床《ゆか》に放《ほう》り出されている。踏《ふ》みつけないようにするのが大変だ。  部屋の中央にコタツがある。布団《ふとん》はかかっていない。テーブル代わりにしているのだろう。今は、天板が裏返され、緑色のラシャの面が上になっている。その片側に、麻雀|牌《パイ》がぞんざいに寄せられ、山を作っている。  目を転じれば黒い机が見える。タワー型のコンピュータとかなり大きめのディスプレイ。その間にはさまるように、小さな|MO《光磁気》ドライブとモデム。それで机の大部分が埋《う》まっていた。 「借金に苦しんでいるというわりには、こんなのがあるんですね」  教授は呟《つぶや》く。以前は勝ちが積もっていたというのは、あながち嘘《うそ》ではないのかもしれない。  コンピュータの周囲には、フロッピィディスクやMOディスクが乱雑に積まれている。大半はラベルも貼《は》っていない。 「持って帰るわけにはいかないでしょうねえ」  中を確認《かくにん》するか、せめてコピーを取りたいところだが、教授はコンピュータはからきしダメだった。 「とりあえず調べてみますか」  一枚のMOの上に手を乗せて精神を集中する。だが、コンピュータの前に座《すわ》ってキーボードを叩《たた》く神河の姿が見えるだけ。教授の能力では、MOの中身を知ることはできない。その周辺で何が起こってきたかを知るだけだ。 「日記か何かあればいいのですが」  呟きながら、机の引き出しを開ける。だが、筆記用具が乱雑に押《お》しこめられているだけだ。 「おや、これは……?」  教授はでたらめに詰《つ》塹こまれた中に、一枚のメモ書きを見つけた。 �TRC103537、9GM21FKC� 「何でしょうね、これ?」  教授はしばし迷ったが、その紙をポケットにしまいこんだ。ゴミ箱のような引き出しの様子から、なくなっても気がつかないだろうと踏《ふ》んだのだ。 「確かにn—NETのIDに見えますね」  メモ書きを見て、加藤《かとう》蔦矢《つたや》はそう言った。  教授の持ち帰ったそれをパソコン通信のIDだと当たりをつけたのは、かなただった。そして、それを持って二人は蔦矢の家に押しかけた。  かなたは菓子を遠慮《えんりょ》なくパクついている。蔦矢の母——養子として迎《むか》えてくれた老婦人——しほが出してくれたものだ。教授もまた、幸せそうにお茶をすすっている。 「アルファベット三文字に数字六文字ですからね」 「後ろのは?」 「パスワード」  かなたは、指を一本立てて答える。いたずらを思いついた子供のような表情だ。 「はあ、なるほどねえ。じゃあ、これを使えばいろいろわかりますかね?」 「それはどうですか」  パソコンを起動しながら蔦矢は答えた。 「そのめちゃめちゃなのは、入会時に送ってくるパスワードでしょう。それをメモっておいたんですよ。でも、ふつうはすぐに変更《へんこう》します。もう少し覚えやすいのに変えますよ」 「自分の誕生日とかですか?」 「そんな、人にばれやすいのはダメだと言われますよ」  キーボードを叩いて通信ソフトを起動させる。 「あれ?」 *警告! モデムに異常があります*  画面に黄色でメッセージが表示される。 「いけね、電源を入れるのを忘れていた」  慌《あわ》ててごそごそとモデムの後ろをいじくる。パチン。 「しばらく使ってないんですよ」  苦笑いを浮《う》かべながら言い訳をする。 「なぜ、僕《ぼく》のところに? 大樹にでも頼《たの》めばいいでしょう」 「……あいつ、ダメ」  かなたは菓子を呑《の》みこんでから答えた。 「ギャンブルにはまるような人間は嫌《きら》いなんだって」 「はあ、そうですか……」  ピポパポピ……。  ぎこちない蔦矢の操作に合わせ、モデムが発信を始める。接続。  ID入力。  そしてパスワード。 *PASSWORD ERROR* 「やっぱり、変更してますね」  蔦矢は後ろを振《ふ》り返った。 「調べようがないですか?」 「無茶を言わないでください。僕はハッカーじゃ.ないんですから」  蔦矢は頭をバリバリと掻《か》く。 「それに、他人の個人IDが使えても、何でもわかるというわけじゃないですよ。その人の㈵Dでいろいろ使って利用料金を押しつけるとか、いろんなフォーラムで顰蹙《ひんしゅく》発言をして迷惑《めいわく》かけるとか、その人あての電子メールをこっそり読むとか、そういうことならできますけど」 「銀行預金とか、そういうのは調べられないんですね?」 「銀行にでもハッキングしてください」  蔦矢は答える。答えながら、別の操作を行なう。 「僕のIDで入ってみますね。確か、n—NETにはプロフィールの登録ができたから、自分で何か書いてるかもしれません」 �PROFILE TRC103537�  ログイン後、蔦矢はそう打ちこんだ。  こんにちは、SHOTTEEです。25歳の独身男性。今は無職ですが、将来はプロ雀士《ジャンし》を目指してます。  麻雀《マージャン》フォーラムで会いましょう。たまに、競馬フォーラムにも出没《しゅつぼつ》します。(~~)  麻雀は数学だあ!!  画面にこれだけが表示される。 「SHOTTEEってのは何です?」 「ハンドル名でしょう。n—NETの中だけで通用するペンネームみたいなものです。麻雀フォーラムを覗《のぞ》いてみましょうか、彼のアップロードで何かわかるかも」  言いながら、蔦矢は�GO FMAHJONG�と打ちこみ、麻雀フォーラムへと移動する。 「さて、どうしたものでしょうね」 �会議室メニュー�を画面に表示させ、蔦矢は振《ふ》り返った。 「二十の会議室が全部使われてて、それぞれ一千以上の発言がありますよ。この中から彼の発言を抜《ぬ》き出せればいいんですが」 「全部印刷してしまえば?」 「冗談《じょうだん》じゃないですよ。何時間もかかります。僕《ぼく》は貧乏《びんぼう》なんですからね」 「何か便利な方法、ないの?」 「どうでしたっけ」  言いながら、�HELP�と打ちこむ。  応《こた》えて、コマンド・メニューがずらずらと表示される。 「そうか、ID検索《けんさく》ができたな」 �PICK ID:TRC103537�  わずかなタイムラグの後、発言タイトル表示がいくつか現われた。  曰《いわ》く、「清一色《チンイーソー》の同時性」「一発ツモ確率表」「数学的に見たべタオリの有効性」「期待値から押《お》し引きを考える」……。  おおよそ三十。ほとんどの発言は、「麻雀理論の部屋《へや》」と名づけられた会議室に集中していた。一年半ほど前から散発的に書きこみは行なわれているが、ここ半年はいっさいない。 「一つ表示させてみましょうか?」  蔦矢の言葉に教授は領《うなず》いた。 00810/07194 TRC103537 SHOTTEE 清一色の同時性 (7) 05/22 03:53 コメント数:2  一色の同時性という言葉があります。たとえば、わたしの手にワンズが多ければ、必然的に他の人にほかの色であるピンズ、ソーズが多くなる。  ゆえに、わたしがワンズばかりを集めていると、他の人でピンズ、あるいはソーズを集めている可能性が高い。  本当でしょうか? トランプならよくあります。わたしがスペードばかりを持っていれば、ほかの人にはスペードは少なく、ハートやダイヤに偏《かたよ》っていることもあるでしょう。  でも、麻雀|牌《パイ》は同じ色の牌は36枚もあるのです。トランプでわたしの手に8、9枚あれば、同じ色は4、5枚しか残りません。でも、麻雀だと、まだ30枚近く残っているのです。ほかの人にそれほど少なくなるものでしょうか?  論より証拠《しょうこ》、計算してみましょう。  わたし、SHOTTEEに13枚の配牌が配られたとき、そこにワンズが0枚(びっくり)、3枚(ふつう)、8枚(多い)、13枚(本当!?)あったとします。このとき、他の人の代表、TEESHOTくんの配牌におけるピンズ枚数の確率分布(%表示)です。 ※縦軸:SHOTEEのワンズ枚数、横軸:TEESHOTのピンズ枚数     0枚 1枚 2枚 3枚 4枚 5枚 6枚 7枚 8枚  9枚 10枚以上 0枚   1.8 9.0 20.0 26.1 22.4 13.2 5.5 1.7 0.36 0.055 0.0062 3枚   1.5 7.9 18.6 25.6 23.1 14.3 6.3 2.0 0.45 0.073 0.0086 8枚   1.1 6.5 16.5 24.6 24.0 16.2 7.7 2.6 0.65 0.113 0.0146 13枚   0.8 5.2 14.4 23.3 24.6 17.9 9.3 3.4 0.91 0.171 0.0239 (参考) 1.5 7.8 18.4 25.5 23.2 14.5 6.4 2.1 0.47 0.079 0.0091       なお、(参考)は、自分の手牌を開ける前の(つまり、自分の手にワンズが偏っているかどうか知らないときの)確率分布です。  確かに連動はしていますね。でも、気にするほどのものでしょうか? どの場合も2〜5枚に収まる、ごくふつうの結果になるのが大半で、配牌がワンズばかり13枚という極端《きょくたん》な場合でさえ、ある他家に、ピンズが8枚以上重なっている可能性は1%程度なのです。そして、常に、0・5%程度はその可能性があるのです。0・5%が1%に上昇《じょうしょう》することを恐《おそ》れるぐらいなら、ほかに考えなければならないことのほうが多いとわたしは考えます。 「う……」  かなたが呻《うめ》いた。 「よく計算するな、こんなの」 「そうですね」  教授が頷《うなず》く。  蔦矢は、さらに操作を進め、 「SHOTTEE」つまり、神河の発言をいくつか表示させる。  どれも似たような内容だった。いろいろな場合の確率計算を行ない、その結果を発表している。大半は、従来言われてきた麻雀理論を否定する立場に立っている。 「麻雀は数学で表わされます。運だの勘《かん》だの、ツキの流れだの、そういったものは存在しません。数学に裏打ちされていない、巷《ちまた》の怪《あや》しい理論は捨てましょう。真の強者は、いろいろなケースで自分の打ちかたを数学的に決められる人間です」  ある発言の最後はこうまとめられていた。    6 ゲームの理論 「大した計算家じゃないか」  大樹はディスプレイの前で腕《うで》を組んだ。画面はn—NETの麻雀《マージャン》会議室、神河の書きこみを映している。 「確かに、これはただのギャンブル狂じゃないかも」 「でしょう?」  教授も相槌《あいづち》を打つ。パソコン通信の神河の書きこみを見て、これはどうあっても大樹の意見を聞かねばと、彼の安アパートに無理やり押《お》しかけてきたのだ。 「しかし、ここまで確率のことがわかっているなら、なぜ競馬に手を出すんだろう? 払《はら》い戻《もど》し率が七五パーセントなら、千円馬券を買うたびに二百五十円損していることぐらいわかっているだろうに」 「野島君の話では、昨日も大井《おおい》で、さんざんだったらしいですよ」 「大井……ナイター競馬ですね」 「一緒《いっしょ》に行った野島君の話では、こと細かにデータを分析《ぶんせき》して何を買うかを決めていたらしいですが」 「それがわからない」  大樹は通信から抜《ぬ》けて、回線を切断した。 「競馬ほど複雑になるとカオスの支配する世界だから」 「カオス、ですか?」 「馬の絶対的な能力だけで決まるのならいいんですよ。でも、それだと強い馬は絶対に負けないでしょう? そうならないのは、その日の馬の体調や気分、騎手《きしゅ》の思惑《おもわく》、芝《しば》の状態、観客の騒《さわ》ぎかた、そんな具合に競馬にいろんな要素があるからですよ。そこがちょっとでも変わると、結果はガラっと違《ちが》ってしまう。それがカオスです」 「はあ」 「たとえばですね、Y=四×X×(1−X)という式があったとしますね」 「えーっと……」 「Xが〇・九だと、Yは四×〇・九×〇・一で、〇・三六です。〇・八八だと、四×〇・八八×〇・一二で、〇・四二二四です」 「おや、だいぶ違いますね」 「ただ一つ確実なのは、結果が必ず〇から一の間になることです。だから何度でも繰り返せる。そこで、こいつを十回繰り返してみましょうか。つまり、〇・九から始めたら、二回目はその結果である〇・三六を使って、四×〇・三六×〇・六四を計算。その結果を使って三回目というふうに」  言いながら、さっさとコンピュータでプログラムを組み、計算を始める。 「〇・九から始めた場合で、結果は〇二四七八。〇・八八からだと〇・六六〇〇。〇・八六からだと……ありゃ、〇・〇〇〇〇〇三!?」 「プログラム、間違えたんじゃないですか?」 「ちょっと変数の精度を上げてみよう」  大樹はちょこちょことプログラムをいじくった。そして、再度計算させる。 「……やっぱり同じだな。これで正しいですよ」 「めちゃくちゃじゃないですか」 「これがカオスなんですよ。初期値がちょっと違っただけで、結果はデタラメと言っていいほど変化してしまう。気象学者のローレンツがカオスを発見したいきさつを知ってますか? データ入力のときに小数点以下第四|桁《けた》を四捨五入するかどうかで、単純な方程式の結果がガラリと変わってしまった。それがきっかけなんです」 「そんなことがあるんだねえ」 「さっき、細かくデータを分析して競馬を予想した、と言ってましたが、必要な情報のすべてを取りこむことは不可能です。レースが始まった後からも、いろいろな要因が出てきますからね。そして、今みたいにそれによって結果は大きく変わる。予測するなんて不可能なんですよ」 「はあはあ」 「いい例が障害レースです。高配当の記録は、数少ない障害レースに偏《かたよ》って多いんですよ。それだけ間違った予測をした人が多いということですね」 「なぜです?」 「端的《たんてき》に言えば落馬が予測できないからですよ。勝てると思われていた馬が障害を飛びそこなって競走中止、無茶苦茶な結果になる。それが、高配当の原因です。レース前に事故を予測して馬券は買いませんからね」 「予測できませんか?」 「それこそカオスが支配する世界ですから。このSHOTTEEさんも不思議な人だ。これだけ数学を強調するなら、カオス理論のことぐらいは知ってるはずなのに。なぜ計算できると思っちゃうんだろう? まるで、コンビュータが出てきた当時みたいな古い考えかただ」 「麻雀《マージャン》もですか?」 「少なくとも、三十四種一三六枚の麻雀牌がどう並んでいるかは予測不能です。たぶん、百桁を超える天文学的な数値でしょう。そして、それぞれのプレイヤーの思惑《おもわく》が関《かか》わってくる……必ず勝てる道理はないです」  大樹はコンピュータのディスプレイをトントンと叩《たた》いた。 「同じ理由で、必ず負ける道理もないんだけどな。さっき、千円の馬券を買えば二百五十円の損と言ったけど、それは逆に七百五十円は戻《もど》ってくるという意味でもありますからね。当てることがあったっておかしくない。一レースに十万円も二十万円も注《つ》ぎこむようなバカをしなければ、それほどひどい目には遭《あ》わないはず」 「今日は全部はずして、一万円ほど消えたそうです」 「その程度か。だったら、すってしまう額の期待値は、一日で二千五百円でしょ。ふつうに当たっていれば、そう損はしてないはずなんだけど」 「だから、不運なんですよ」 「運不運か……とにかく一度会ってみますよ」  退屈《たいくつ》だな……。  野島は二人の会話に割って入ることができず、ただぼうっと眺《なが》めていた。  一人は親友の神河。そしてもう一人は「先生」が紹介してくれた小太りの男。確か、高徳大樹とか言ったか。  シーがどうの、シグマがどうしたのと、わけのわからない言葉を駆使《くし》して二人は話しこんでいる。  数学か……。  授業は練習|疲《つか》れで寝《ね》てばかりいたな。と、高校時代を思い出す。それにしても、神河は文系だったと思ったのだが。  話が一段落ついたのを見計らって、れい子がジュースを持ってきた。トンとテーブルにおくと、そそくさと奥《おく》へ引っこむ。  大事な客に限ってこれだからな。  野島は思う。その理由が明らかなだけに、責めることはできないが。 「そりゃあね、一対一のゲームならそうなんだけどね」  運ばれてきたジュースを一息に飲み干し、大樹がそう告げ、会話が再開する。 「先手が必勝か、後手が必勝か、それとも必ず無勝負になるか。すべてのケースを洗い上げれば、そのどれかになるよ」 「だったら、多人数ゲームでも同じだ」 「そこが逝うんだって。証明してみせようか?」  来たか。  野島は緊張《きんちょう》する。頭の中でもう一度サインを思い出す。 「ごく簡単なゲームだ。野島君にも入ってもらって、三人三目並べをやってみよう。野島君、オセロある?」 「ああ」  野島は押《お》し入《い》れからオセロセットを取り出した。かなり使いこまれている。実は、野島のものではない。神河より一足先に来た大樹が持ってきたものだ。そのときに、サインも確認《かくにん》してある。 「ルールは簡単、この隅《すみ》の三×三だけ使う」  大樹は新聞でオセロ盤《ばん》のほとんどを覆《おお》い隠《かく》し、端《はし》の九マスだけが見えるようにした。 「順番に白でも黒でも好きなほうを置いていく。同じ色を三つ並べたら、その人の勝ち。いいかな?」 「三目並べは先手必勝のはずだ。真ん中に置けばいい」 「正確には、最善手を取り合えば、必ず無勝負になる、だよ」  大樹は神河の言葉を訂正《ていせい》した。 「でもね、この三人三目並べはそうはいかない。一番目でも二番目でも好きな順番を取っていいよ。僕《ぼく》はきみが選ばなかったどちらか、野島君が三番目だ」 「じゃあ、俺《おれ》が一番目だ」  言いながら、中央に黒を上に置く。  大樹は即座《そくざ》に角に白を置いた。  野島は大樹を横目で見た。開いた手が左の腰《こし》にある。  野球のブロックサインに比べれば、何とも簡単なものだ。  黒をはさむように、白を角に置く。  ○□□  □●□  □□○  神河は呻《うめ》いた。もう、どこにも置けない。残ったどの場所に白を置こうが黒を置こうが、大樹が三つの並びを作ってしまう。 「僕の勝ちだね」  大樹が笑いながら勝利を宣言する。 「もう一度だ」  今度は初手を角にした。黒を置く。大樹は即座に白を真ん中に。  野島は大樹の握《にぎ》り拳《こぶし》が左腰にあるのを見て、白をはさむ角に黒を置いた。  ●□□  □○□  □□●  黒と白が入れ替《か》わっただけで、さっきとまったく同じ形。つまり、大樹の勝ち。  神河は神経質に眼鏡《めがね》を触《さわ》る。盤面から駒《こま》をすべて下ろし、新たに黒を辺に置く。大樹はそこからケイマ飛びの角に白を置いた。  □●□  □□□  ○□口  腹の握り拳を見ながら、野島はその白からやはりケイマ飛びで、黒。  □●□  □□●  ○□□ 「野島あ」  神河は心底|恨《うら》めしそうな声を上げた。これもまた大樹の勝ちである。神河の次の一手は、必ず自らの首を絞《し》める。  野島は答えなかった。親友を騙《だま》すバツの悪さに黙《だま》りこくっている。 「真ん中、角、辺、どこから始めても僕の勝ちだ。今度は僕が先手でやってみるかい?」  大樹は黒を表に角に置いた。神河は真ん中に白を置き……。  野島はその下に白を置いた。 「おい!」  神河が大声をあげる。それは、勝ってくださいと大樹に言ったようなものだ。  ●□□  □○○  □□□ 「これでわかったろう? きみがどんなに頑張《がんば》っても、野島君が僕に勝たせようとする限り、きみに勝ちはない」 「八百長《やおちょう》だ」 「そうだね」  神河の言葉を大樹は肯定《こうてい》した。 「けれども、多人数ゲームにはこの間題が常につきまとう。突《つ》き詰《つ》めていけば、誰《だれ》かが自分以外の誰かを勝たせるための手を打たなければならなくなる。一人の都合で勝てる必勝法は存在しない」 「そんなはずは……」 「麻雀《マージャン》のようなゲームでそれが認識《にんしき》されないのは、ラックの要素が入るからだ。それがないゲームだとしても極端《きょくたん》に複雑で計算しきれず、誰かがミスをするからだ」 「ならば、俺《おれ》がミスをしなければ……」 「違《ちが》う。第三者がきみを勝たせないミスをしてしまうんだ。さっきの野島君のようにね。計算で勝率は上がるだろう。でも、必勝とはいかない」  神河の顔色が蒼《あお》くなっていく。 「数学数学とわめくくせに、そんな簡単なゲームの理論がなぜわかってない? カオス理論に基づけば、競馬に必勝法がないことも明白。なぜ、それを知らないんだ。きみは?」  大樹は指を突きつけた。  ぐらり、神河の身体《からだ》が傾《かたむ》く。そして、そのまま前に倒《たお》れた。床《ゆか》にぶつかった衝撃《しょうげき》で眼鏡《めがね》が飛ぶ。  だだっ。  れい子が駆《か》け寄ってきた。そして、その眼鏡を引っ掴《つか》み……。  大樹も野島もあっけに取られて見守る中、窓を開け放つとそのまま外に投げ捨てた。    7 算《かぞえ》の眼鏡 「ひどいことをする。折れてしもうた」  老人は左手で身体をさすりながら立ち上がった。右手は骨折したらしく、だらりと垂れ下がっている。  確かにひどい怪我《けが》だ。だが、十階から投げ落とされてそれですんだのである。 「む!? あいつめ」  バット片手に小太りの青年がきょろきょろとあたりを見回しながら近づいてくる。いんちきゲームで自分をやりこめたあいつだ。  老人は計算を始める。やつめ、あのバットでわしを殴《なぐ》るつもりだな。だが、やつはわしのこの姿を知らない……。ならば、この方法がいいじゃろう。 「た、助けてくだされ」  老人はふらふらと大樹の前にまろび出る。 「どうしました?」 「化物が、化物が襲《おそ》ってきたんじゃ」  言いながら、自分の出てきた路地を指す。  大樹は路地のほうを向いた。  行け、そのまま歩いていけ。そしたら背中から一発おみまいしてやる。  老人は妖術《ようじゅつ》に精神を集中する。  その瞬間《しゅんかん》、青年はくるりと振《ふ》り返った。 「ところで、狸《たぬき》を見ませんでしたか?」 「た、狸?」 「土竜《もぐら》でも烏《からす》でもいい」 「な、何のことじゃ?」  老人は混乱した。この男は何を言っている? 「わからない? 僕《ぼく》が何を考えているか読めませんか?」 �算《かぞえ》の眼鏡《めがね》�は反射的にうなずいてしまっていた。 「それが、あなたの限界ですよ」  大樹はぴしゃりと宣言した。 「僕は、ただあなたを混乱させてみたかっただけなのに」  二人は公園のベンチに腰《こし》をかけていた。 「計算で計れないこともあると言うんじゃな」 �算の眼鏡�が寂《さび》しそうに呟《つぶや》く。 「ある程度は有益です。もし、あなたに第二の能力がなければ、まったく問題はなかった」 「第二の能力じゃと? わしは知らん。わしはただの計算屋じゃ」 「自分の生まれた理由を考えたことがありますか?」  大樹は空を見上げた。太陽がさんさんと照っている。 「コンピュータが発明された頃《ころ》、一つの幻想《げんそう》がありました。これによってさまざまな事象が計算で予測できるだろうと。�ラプラスの魔《ま》�こそ否定されたが、ある程度の誤差を容認《ようにん》すれば、せめてよい近似《きんじ》が得られるだろうと。たとえば、天気予報です」 「ああ、もちろんじゃ」 「違《ちが》ったんですよ。たとえば、ニュートンの運動方程式はそれに当てはまります。入力データに多少の誤差がある場合、結果も多少の誤差ですむ。ところが、天気予報のための方程式はカオスでした。単純なくせに、わずかな差で結果を大きく変化させてしまう。そんなタチの悪い方程式がいくつも見つかり、すべて計算で予測するという幻想は崩《くず》れたんです」 「そんな……馬鹿《ばか》な」 「それが事実です。でも、人間は諦《あきら》めきれなかった。カオス理論が競馬予想を否定しても、予想理論は次から次へと生まれてます。ゲームの理論が多人数ゲームの必勝法の存在を否定しでも、麻雀《マージャン》には必勝法があると信じます。かつて計算に抱《いだ》いた期待を捨てきれない」 「いかんのか、それが?」 「決して万全《ばんぜん》ではないということを知らないのは。結果、どういう現象が起こるか知ってますか?」 「何じゃ?」 「ビギナーズ・ラックですよ。麻雀でも競馬でも初心者が幸運に乗って勝ってしまうことがある。本来は確率的なブレでしかない。将棋《しょうぎ》と違い、技量をいくらあげても、麻雀では初心者に負けてしまうことがある。そんなとき、技量を、計算を万全だと思いこんでいるがゆえに、ビギナーズ・ラックなんて言葉を人間は作り出したんです。初心者にはツキがある。だから、計算以上に初心者が勝ってしまう。本当は計算の限界を示しているだけの現象をそうすりかえでしまった」 �算の眼鏡�は黙《だま》りこくった。 「かくいう僕だってよく言いますよ。本心では、技量が上なのに負けることは納得《なっとく》できませんからね。そして、ビギナーズ・ラックの対になっているのが『ツキが衰《おとろ》える』という言葉です。計算して計算して、結果、失敗する。それは計算の限界なのに、よく考えるやつほどツキがない、なんてね。計算したことに当然のように報酬《ほうしゅう》を求めるから、そんなふうに考える」 「まさか……」 �算の眼鏡�は頭を抱《かか》えこんだ。 「それがあなたの第二の能力ですよ。これ以上、神河君を手助けしようと思わないほうがいい。それは彼をますます不幸にする」 「あいつは、いいやつじゃった。今まで、いろんな人間と生きてきたが、あいつが一番わしを大切にしてくれた。わしを理解してくれた」 「でしょうね。彼は努力を何より大事にする人だった。そして、運不運を信じなかった。でも、だからこそ、彼はあれだけ不運な目にあったんですよ。あなたが一緒《いっしょ》にいる人間がビギナーである間は、あなたは最良のパートナーです。でも、ひとたびその人間が熟練してしまうと、あなたはパートナーを不幸にしてしまう。それが、あなたの第二の能力です」 「……また、新しい相棒を深さねばならんのか」 �算の眼鏡�は立ち上がった。 「もし、わしが新しい相棒を見つけて、お前さんにゲームを挑《いど》んだとして——受けてくれるか?」 「喜んで」  大樹は左手を差し出し、握手《あくしゅ》をした。 「強敵は歓迎《かんげい》ですよ」  そして、�算の眼鏡�は去っていった。  神河青年は、その後、とある麻雀連盟の試験に合格。プロ雀士《ジャンし》の卵となった。一時の不運は消え、そこそこの勝率を残しているという。独自の理論をもとに、攻守《こうしゅ》の切り換《か》えに冴《さ》えを見せる打ちかたから、やがてはトッププロになるだろうと業界で噂《うわさ》されている。  大樹はといえば、相変わらずゲームに明け暮れ、カードの準備に余念がない毎日である。  いつか、�算の眼鏡�との再戦があるだろうと。 [#改ページ] [#ここから5字下げ]  ああ、すっかり遅くなってしまいました。  仕方ありません、あえてコンセプトを曲げて、まっすぐに向かってあげようじゃありませんか。  そう、あのビルへ行かねばなりません。  どん。  ああ驚《おどろ》いた。ずいぶんと一心不乱に歩く人がいるものです。  肩《かた》がぶつかったことにも気づかないようすで、歩いていってしまいました。きっとあの人にとっては、ただ目的地に向かってまっすぐに進むことが、効率的で論理的で、正しいことなのでしょう。  たまには、迷《まよ》ってみてもいいと思うのですけれど。  それとも、目をそらすのが怖《こわ》いのでしょうか。  ほんのわずかでも、疑《うたが》うことはできないのかもしれません。  いま、このときに見えていることにすがらないと、自分の足もとが、がらがらと崩《くず》れていってしまうと感じているのかもしれません。  考えてみれば、いまどき、そういう人は決して珍《めずら》しくありませんよね。自分自身で考えて、吟味《ぎんみ》したことではなく、誰《だれ》かに与えられた価値観をそのまま受け入れている人たち。  価値観を与《あた》えたがっている人たちだって、あふれています。ちょっと通りの周囲を見渡《みわた》してみたってそう。  エステサロンは、画一的な女性の美を賞賛し、証券会社は持っているお金を増やそうとしないのは愚《おろ》かだとあおりたてています。  もちろん、そういうのが悪だとはいいません。  決めつけることは、したくないですけれどね。  おや、こんなところに脇道《わきみち》がありますねぇ。こちらをたどっても、たどりつく場所もかかる時間も似たようなものなのではないでしょうか? いいえ、違《ちが》っていたからといっても、それがどうしたというのです? [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第四話  狐高  西奥隆起   1.べールの女   2.稲垣織穂—妖狐   3.隆志と霧香   4.さまよう心   5.孤高の狐 [#改ページ]    1 ベールの女 「あたしのようになりたいの?」  夜の闇《やみ》に包まれて、ベールの女が言った。その問いかけに、正美《まさみ》はうなずくことも忘れていた。 『本当にいたの……痩《や》せ女《おんな》が……?』  そう呼ばれるのにふさわしい容姿。  この極寒のなか、体の線を強調した服を着込んでいる。むきだしの腕《うで》は、針金のようだ。すらりと伸《の》びた脚《あし》。ふとももでさえ、正美の小さな手ですらひとつかみにできそうである。  男の視線で見れば、いわゆる色気には乏《とぼ》しい。けれども、正美にとっては、理想そのもの。  正美の体つきも、決して太っていると言われるようなものではない。百人の男がいれば、九十九人までが正美を選ぶ。  しかし、隆志《たかし》がその九十九人に含《ふく》まれていなければ、正美にはなんの意味もないことなのだ。 「こんなふうになりたくないの?」  彼女がまた言った。  ぶるっ。  人気のない裏通りを吹《ふ》く風は、いっそう冷たく思える。盛《さか》り場《ば》近くでも、月曜日——いや、すでに火曜日の——深夜ともなれば、ぽっかりと誰《だれ》もいない空間ができていても不思議はなかった。  正美は思わず身をすくめると、吐《は》き出した白い息で両手を温めようとした。  無駄《むだ》だ。いっこうに温まらない。  体の芯《しん》から震《ふる》えがわきあがってくる。悪寒《おかん》を感じていた。  それとも、これは怯《おび》えだろうか。  あの記事の結末が、脳裏《のうり》によみがえる。「ちかごろ、都会ではやる奇妙《きみょう》なうわさ」という、女性週刊誌の特集だった。  痩せ女の話は、その三番目に登場する。  痩せたいと願う女性の前に『あたしのようになりたくない?』と、異常に痩せた女性が近づいてくるのだ。  うんとうなずいたが最後、痩せ女に取り憑《つ》かれてしまう。はじめは食べすぎそうになると「それ以上は食べてはいけない」と警告してくれるありがたい存在だ。けれども、ダイエットに成功してからも、痩せ女は離《はな》れてくれない。減食どころか絶食を強要され、ついには何も口にさせてもらとなくなる。  そして……。  あのとき、コンビニで肩《かた》を並べて記事を読んでいた隆志は「そんな話があるわけがない」と笑った。  正美は自分が霊感《れいかん》の強いほうだと思っていた。だから、彼のようには笑えなかった。  なによりも、痩せたいと思う女性の心はよくわかったから。隆志も、それに気づいたのだろう。自分が笑ったのは記者の貧困《ひんこん》な想像力であって、女性たちのことではないとすぐに言ってくれた。最近、極端《きょくたん》なダイエットによる拒食症《きょしょくしょう》女性の死亡事件が世間を騒《さわ》がせていたのである。  それを見るたびに、正美は暗い気分になったものだ。救ってくれたのは隆志。  でも、もう駄目なのだ。やっぱり、まだ不充分《じゅうぶん》だったのかもしれない。  彼にもう一度、手をさしのべてほしい。そのためには……。 「私に任せれば、もう大丈夫《だいじょうぶ》。そのために、あなたに会いに来たのだから……」  声は、ベールの奥《おく》から発せられた。 『会いに来たのは、あたしのほうなのに? どうしてこの人は自分が来たと……』  どうすればいいのか、わからなかった。隆志に、あんなふうに言われてしまって。  もう一度ダイエットしようにも、これ以上どうすればいいのかわからなかった。彼のことを考えているうち、山ほどの缶《かん》ジュースとポテトチップスをからにしている自分に気づいたとき、たまらなくなって、涙《なみだ》でぐしゃぐしゃの顔のまま、下宿を飛びだしたのだ。  気がつくと、あの記事にあった、原宿《はらじゅく》駅から山手線《やまのてせん》沿いを歩き回っていた。  そして、出会った。  正美は、ベールの女を正面から見た。  街灯の光は弱々しく、その女性の顔は黒いベールに覆《おお》われて、はっきりとしない。 「一体、どんな顔をしているのだろう」  そう思った瞬間《しゅんかん》に、正美の背後を通りかかった電車の明かりが、ベールの女性を照らしだした。けれど、彼女の顔は闇に沈《しず》んだままだ。ほっそりとした輪郭《りんかく》だけがうかびあがる。 「大丈夫よ。あなたのために私は来てあげたの」  彼女が言葉を発しても、ベールはぴくりとも動かない。 「なりたいでしょう?」  こくんと、正美はうなずいた。  その瞬間に、どっと安堵《あんど》の気持が湧《わ》いてくる。  ——これでいい。  ——これでいいのよ。  彼女の言うことさえ聞いていれば、思いどおりの自分になれる。痩せられるのだ。  ベール女性の表情は、やはり見えなかった。それでも、明るく微笑《ほほえ》みかけられているように感じた。  ——あたし、もっと痩《や》せるの。  ——とにかく、痩せるのよ。  痩せてどうしたいのか、そのことはもう正美の脳裏から消え去っている。  正美は、自分が意思のない者特有のうつろな微笑みを浮《う》かべていることにさえ、気づけなかった。 「さあ、行きましょう」  脂肪《しぼう》どころか、筋肉もないような腕が、正美の手を取ろうと伸ばされた。 「待ちなっ!」  高い声が響《ひび》いた。すべてを刺《さ》し貫《つらぬ》くような、鋭《するど》さをそなえた声。  ベールの女性が、振りかえる。  ——どうしてあんな声を気にするの。  ——あたしは、早く痩せたいのに!  ベールの女性の視線を追う。  それまで誰《だれ》もいなかったはずの、店仕舞《みせじま》いした喫茶店《きっさてん》の裏口近く。  半月の淡《あわ》い輝《かがや》きの下、そこに黒のハーフコートを着た女がいた。  かなりみごとなプロポーションだが、今の正美にとっては余分なものがつきすぎているように感じられた。  その女は、かつかつと足音を立てて迫《せま》ってくる。切れ長の目を、いささか常人ばなれしたほどにつりあげて。  ハーフコートの女は、べールの女性を見て、厳《きび》しい声音《こわね》で言った。吐《は》き出された白い息が、まるで咬《か》みつこうとしている牙《きば》のように思える。  知らず知らずのうちに、正美は前に進み出ていた。 「違《ちが》うわ」  そのときになって、はじめてハーフコートの女は正美を見た。今まで、そこにいることすら気に留めていなかったのだ。 「あんたはひっこんでな」  ぴしりと言う。しかし、正美はひきさがらなかった。いつもの自分なら、怯《おび》えて口ごもっていたはずなのに、今日はなぜか言葉が勝手に流れ出た。 「この人はいい人よ。あたしのために来てくれたんだもの」  話しているうちに、段々楽しい気分になってくる。そうだ、すべてを彼女にまかせていればいいのだ。 「あんた……死にたいのか」  ハーフコートの女は、吐《は》き捨てるように言った。 「こいつは、あんたを死なせるためにやって来たんだよ。知ってるだろ、痩せ細って死んだ女たちのこと。同じ目にあいたいのか?」 「この人は、そんなことしないわ」  どうして言いきれたのか、疑問は湧かなかった。 「あたし、この人を信じます」 「信じる、だと?」  ハーフコートの女の顔が、大きく歪《ゆが》んだ。  その瞳《ひとみ》にぎらりとした輝きが浮《う》かぶ。平凡《へいぼん》な生活をしてきた正美には、その表情の正体がわからなかった。  怒《いか》りだ。それも、殺気をともなうほどの。  ともかく、ハーフコートの女の中で何かがふくれあがっていくことだけは、正美にも感じられた。  それが破裂《はれつ》する寸前。 「勝手にしろ!」  ばかばかしいとでも言いたげな投げやりさで、ハーフコートの女は正美に背を向けた。 「あんた、それ以上痩せる必要があるの?」  遠ざかりながら、女が言い捨てる。 「だって、だって痩せないと」  痩せなければならないのだ。  ……なにか切実な理由があったはずなのだ。が、思考はまどろみ、闇《やみ》に溶《と》けてゆく。  遠ざかった黒いハーフコートもいつしか夜の闇に溶けていった。  そして———— 「さあ、行きましょう」  ベールの女が、正美の手をとった。  彼女はついに気づかなかった。  ベールの奥《おく》からは、決して白い息が吐かれなかったことに……。    2 稲垣織穂—妖狐  水曜日の午前中だが、 <ブックス はるかぜ> の店先はにぎやかだった。  木曜日が休日なおかげで、多くのマンガ雑誌の発売日が今日になっているのだ。大学生らしい多くの若者が立ち読みをしており、中にはこれからどこに行こうと相談している声もあった。  もっとも盛況《せいきょう》なのは店先だけで、書店のそれ以外の売り場は閑散《かんさん》としたものだ。童話や絵本が置かれている一角に、一人の女性がいるだけだった。  黒いハーフコートに身を包んだ、切れ長の目の女だ。  彼女の名は稲垣《いながき》織穂《しきほ》といった。  織穂が手にしている本の表紙には、『日本のむかしばなし集成 ㈿』と書かれている。読んでやる子供がいるほどの歳《とし》には見えない。かと言って、彼女自身のためにというほど、専門的な本でもなかった。  その本を棚《たな》に戻《もど》さず、織穂は歩き出す。  レジに立ち寄らずに外に出てしまう彼女を、誰《だれ》もとがめようとはしなかった。かたすみにとりつけられた監視《かんし》カメラも、彼女を映し出すことはない。  それは、彼女の妖力《ようりょく》のゆえだ。  織穂は、妖狐《ようこ》なのである。  妖狐というのは、人間が『狐《きつね》は人を化かす』と信じたことによって生まれてきた妖怪《ようかい》だ。強い想《おも》いが結晶《けっしょう》すれば、あらたな生命が生まれる。けれども、それらの生命は、通常のものとはまったく異なったありかたをするのだ。  たとえば、これだ。妖怪の姿を捉《とら》えることは、機械にはできない。  織穂は、店を出て人影《ひとかげ》のない路地に入りこんだ。  本な他面にほうりだすと、ページが自然に聞いた。  大きな狐の挿絵《さしえ》があって、ひらがなの多い文で物語が綴《つづ》られていた。  寂《さび》しさのあまり、人を化かしてばかりいる狐は、正直者の太郎《たろう》サに悪さをすることを戒《いまし》められる。太郎サに勧《すす》められるまま、狐は娘《むすめ》の姿になって村で暮らすことにした。  ところが、村一番の暴れん坊《ぼう》である金次《きんじ》に、正体がばれてしまう。今までのことがあるだけに、金次に先導された村人たちは狐を殺そうとするが、太郎サに庇《かば》ってもらい難を逃《のが》れる。最後は、狐が村人たち皆《みんな》に謝《あやま》って、めでたしめでたし。  織穂の瞳の奥に、暗い炎《ほのお》が揺《ゆ》れる。 『あいつらは、許してなどくれなかった』  忘れもしない、あれは浅間山《あさまやま》が噴火《ふんか》した年。人々が、その灰で大きな飢饉《ききん》が訪《おとず》れると言っていた頃《ころ》……。人の心は荒《すさ》んでいたのだ。  太郎サなどという名ではなかったあの男は、化け狐と関《かか》わったことで村を追われた。  それも当然の報《むく》いだ。太郎サも優《やさ》しい男を装《よそお》っていただけ。狐を利用しようとしたのだ。金次は、それの成果だけを横取りしようとして……。 「狐に殺された」  そう呟《つぶや》いた織穂の声には、なんの感情もこもっていない。  傷つくのは、もういやだ。だから、誰も信じない。  裏切りは嫌《きら》いだ。裏切るために、他人を騙《だま》す奴《やつ》はもっと嫌いだ。  ——もっとも……。  騙されたがっている馬鹿《ばか》ほど嫌いなものはない。騙されてることに気づけない馬鹿も、同じくらい嫌いだ。  妖怪に取り憑《つ》かれることを自ら望んだ娘のことを、ふと思いだした。死を望んでいるのなら、それもいいさ。自分には関孫の無いことだ。  だが、忌《い》ま忌《い》ましいのはベールの女、いや、女の姿をしているあの妖怪だ。人の心を踏《ふ》みにじることに喜びを感じている、許されざる存在だ。  しかし、今、あいつに挑戦《ちょうせん》したら。  まるで、あの馬鹿を助けようとしているみたいじゃないか。  織穂は、この数日、ずっと感じているイライラを押《お》し殺した。  腕《うで》時計に目を落とす。もうすぐ十時だ。  暇《ひま》つぶしは終わりにしよう。  織穂はマッチを取り出した。  先端《せんたん》の赤い燐《りん》が、まるで空中に溶けこむように消えていく。  それに応《こた》えるように、本を青白い燐火《りんか》が包んだ。  狐の絵が、黒く焦《こ》げていくのを見ずに、織穂は身をひるがえした。    3 隆志と霧香  約束の喫茶店《きっさてん》に入ったのは、十時を五分ほど過ぎた頃だった。  渋谷《しぶや》の明治《めいじ》通りから少し入って、御獄《おんたけ》神社を越《こ》えたあたり。もう少し、探すのに時間がかかるかと思っていたのだが。  気分は重かったが、一度約束した以上、それを裏切ることはできなかった。  店内は閑散《かんさん》としている。店のマスターは昼のランチタイムの準備に勤《いそ》しんでいるようだ。  窓際《まどぎわ》の一番|奥《おく》のテーブルに織穂は腰《こし》をおろしていた。 『喫茶ノエル』と店の名の入ったマッチ箱から一本とりだし、ここに来て三本目のメンソールに火をつける。数分前に運ばれてきたコーヒーには、まだ一口もつけていない。  からんころん。  乾《かわ》いた鈴《すず》の音が店内に響《ひび》き渡《わた》り、店の扉《とびら》が開かれる。織穂は、気づかなかったふりをして、窓の外に目を向けていた。  待ちうけていたように思われるのはごめんだ。  それでも、気配で彼女だということはわかっている。 「昔のことでも思い出していたの?」  その言葉にぴくりと紫煙《しえん》が揺《ゆ》れる。  織穂の前にいたのは、シックな雰囲気《ふんいき》のスーツを着こなした美女だ。一歩さがって、くすんだ緑色のジャンパーにところどころ白く色槌《いろあ》せたジーパン姿の青年がひかえている。しっかりした姉とだらしのない弟といった印象だ。 「座《すわ》れば」  織穂は、そっけなく言った。視線を合わせようとはしない。  黒いストレートの髪《かみ》に白い肌《はだ》が映《は》えるこの女性、霧香《きりか》と目を合わすと、心を見透《みす》かされるような気持ちになる。妖術《ようじゅつ》を使われている気配はないのに。  織穂は煙草《たばこ》の灰を落とすふりをして、動揺《どうよう》を押《お》し殺した。  ウェイトレスがやってきて、霧香はホットコーヒーを二つ注文する。青年はじっと織穂を見つめていた。  気に入らない目つきだ。こわばった表情。緊張《きんちょう》しているのだろうか。怖《こわ》がっているようでもあるし、疑わしそうでもある。  ただの人間のようだけれど、霧香はなんのつもりでこの男を連れてきたのだろう。 「織穂、彼は武藤《むとう》隆志くん。長年のお客さまなの。こちらは、稲垣織穂。あたしの友だち」 「知りあい」  織穂が無愛想《ぶあいそう》な声で訂正《ていせい》するのと、青年がぺこりと頭をさげるのは同時だった。 「あいつにはもう会えたのかしら?」  霧香は、織穂の訂正などなかったかのように言葉を続けた。  織穂は何も答えずに、煙《けむり》をくゆらしていた。  あいつ——痩《や》せ女《おんな》のことだ。  知りたければ私の心を読んでみろと、今度は逃《に》げずに、霧香を睨《にら》みつけた。  彼女の片手は、マッチ箱をもてあそんでいる。 「その、痩せ女っていうのが、正美に取り憑《つ》いたモノなんですか?」  隆志が口を開く。その質問は霧香に向けられていた。  霧香はそのとおりだと答えてから、隆志に説明を始めた。  それは十日前に、織穂が霧香から教えられたものとは違《ちが》っていた。  拒食症《きょしょくしょう》女性の連続死亡事件が、人間外の「もの」の仕業《しわざ》であるという点では同じ。  だが、隆志に対しては、ダイエットのしすぎで死んだ女性の悪霊《あくりょう》と説明しているのだ。  織穂は、よほど何か言ってやろうと思ったが、こらえた。気の弱そうな青年を騙そうというのではない。他の妖怪《ようかい》たちを守るためだということがわかっていたからだ。  霊《れい》というものが存在するのかどうか、妖怪たちですら知らない。強い「想《おも》い」が自分の分身である妖怪としての「幽霊《ゆうれい》」を生むことならあるけれど。  もちろん、痩せ女はそんな存在ではなかった。  痩せ女ははじめ、人が痩せたいという気持ちに応《こた》えて、痩せようとする強い意志を与《あた》える妖怪だった。  だが、それはやがて歪《ゆが》んだ。なんのために痩せるのかを忘れて、痩せることだけが目的になった。  やがて、痩せ女の目的は、痩せていく人間の姿を見ることに変わっていった。いかに苦しもうがかまわない。  彼女の理想である、痩せた肉体を体現させることだけが目的になった。理想をかなえる前に餓死《がし》してしまったら、次の人間に憑くだけだ。  そう霧香に教えられたとき、織穂は痩せ女を追いかけはじめていた。  やつは、裏切るからだ。  はじめ、手助けをすると言っておきながら……。  ところが、見つけたときには、やつをどうこうする気力を失わせるようなことが待っていた。  今、痩せ女をなんとかしようとすれば、あの馬鹿娘《ばかむすめ》にかかわらなければならない。それがわずらわしいのだ。どうして、あの娘を見るのがこんなに嫌《いや》なのか。ほうっておくとイライラするのか。  原因を考えると、ますますいらだたしいから、考えないことにしているのだが。 「……だからあなたに、織穂を紹介《しょうかい》しに来たの。彼女は除霊師《じょれいし》なのよ」  そんな言葉が聞こえてきた。織穂ははじめて注意を彼らに戻《もど》した。 『除霊師だと?』  そう呼んだ意味はわかる。妖怪のことを知られたくないのだろう。だが、どうしてあたしが、こいつを助けてやらなきゃいけないんだ。  織穂が問いただそうとした矢先。 「お待たせしました」  コーヒーが二つ運ばれてきて、霧香と隆志の前に置かれる。  霧香が、ブラックのまま口をつけた。  織穂が口を開いたとき、出てきた言葉はさきほどの意図とはまるで違っていた。 「安易に誰《だれ》かに頼《たよ》るから、痩せ女に取り憑かれるのよ。まったく……」 「安易にじゃない!」  不意に、隆志が叫《さけ》んだ。ウェイトレスが驚《おどろ》いた顔でこちらを見ている。  隆志は紅潮した顔で、言葉を続けた。さすがに音量は落としている。 「正美は、もうどうしたらいいのかわからなくなってたんです。あいつは、あそこまで痩せるのにすごく頑張《がんば》ったんだ。だのに、俺《おれ》はそれを知ってたのに、あんなことを言ってしまって……。その、つまり……」 「聞きたくないね」  織穂が、彼の言葉をさえぎった。痴話喧嘩《ちわげんか》のくわしい中身なぞ聞きたくもない。 「要するに、悪いのはあんたってことじゃないか」  織穂の指摘《してき》に、隆志はがっくりと肩《かた》を落とした。 「正美ちゃんと隆志くんは、何度か私のところに来てくれたことがあって」  そうか、あの娘は正美というのか。  織穂は、自分を見つめた、とろんとした目を思い出した。 「はじめてきたときも、ダイエットの相談をされたわね」  霧香は、原宿で「ミラーメイズ」という占《うらな》い館《やかた》を開いている。 「本気じゃなかった……。つまらない冗談《じょうだん》に、あいつがむきになって。俺もイライラしてたんです。この時期になっても就職は決まらないし……」  そんな事情は、織穂の知ったことではないのだ。どう言い訳したところで、隆志自身が自分を許せないのだろう。  くだらない男の自責の念を引き受けてやる義理はない。 「お願いです、正美を助けてください!」  隆志は、いきなり頭をさげた。 「お礼なら、俺にできるかぎりのことはします」 「あんたに何ができるっていうんだ……」  織穂は、ぼそりと呟《つぶや》いた。 「金もないし、とりえもないです。惚《ほ》れてくれた女の子の心ひとつ思いやれないような男です。でも、織穂さんが正美を助けてくれるなら、しろと言われたことはなんでもやります。お金なら、何年かかっても払《はら》います。だから、信じてください!」  信じろ、だと?  できるものか。他人を信じることはもうしないと、自分は決めたのだ。  もう傷つくのはいやだから。  まして、金や異性がからんだら、人間はいとも簡単に前言をひるがえす。 「痩《や》せ女《おんな》を見つけるだけならできないことはない。けどね、あの娘は自分からあいつに従ったんだ……」  痩せ女を許すつもりはない。だが、犠牲者《ぎせいしゃ》を助けるなどというのは、余計な労力だ。  織穂は、自分の奥底《おくそこ》からふくれあがってくる衝動《しょうどう》を無視した。  このあいだ会ったときに、痩せ女の妖術《ようじゅつ》や妖力は、自分に対抗《たいこう》できるようなものじゃないことはわかっていた。 「あいつは、人に入りこむわ。正美ちゃんがあなたの助けを拒否《きょひ》したのは、そのせいじゃないかしら?」  なんでもお見通しというわけか。  織穂は、ほんの一瞬《いっしゅん》、霧香を睨《にら》みつけた。 「だったらなおさらだ。やつを斃《たお》すにしても、取り憑《つ》かれた正美って娘《むすめ》の命、保証はできないね」  被害者が憑依《ひょうい》されているのなら、すでに人質を取られているのと同じことだ。本体の居場所をつきとめねば、どうにもならない。  だが、調べても、すぐに見つかるわけはなかった。憑依の力が強ければ、かなりの距離《きょり》があっても肉体を支配される。痩せ女のように強い護身の術を持っていそうにない妖怪《ようかい》は念入りに本体を隠《かく》すだろう。  けれども、一度憑俵体を追いだせたなら、職穂にはそれを追跡《ついせき》することが可能だった。  追い出すのは簡単だ。憑かれた者を殺してしまえばいい。  それをせずに、痩せ女を斃せと、霧香と若者は言うのだろうか。自分が、どうしてそこまでしてやらねばならないのだ。  霧香に、何人か仲間がいることは知っていた。そいつらに頼《たの》めばいいではないか。  ああいうやつは、できれば自分の手で罰《ばっ》してやりたいものだが。 「取り憑かれているからこそ、彼女の命を助けるには、あなたでないとだめなのよ」  霧香は、そう言いながら、マッチ箱を取りだした。真っ赤な箱だ。  そして中箱を抜《ぬ》き出す。赤い頭が整然と並んでいた。 「貸してもらえるかしら」  織穂の手から、この喫茶店《きっさてん》のマッチ箱を抜き取った。  二つを、縦に並べて置く。  そして、中箱だけのそれを、静かに店のマッチの中に押《お》し込んでいった。  当然の結果として、白い頭が雑然と並んだ中箱が、ゆっくりと押し出されてくる。 「織穂なら、できるはずよね」  追い出された白いマッチの中箱を、自分の持ってきた真っ赤な箱の方に入れながら、霧香は言った。 「そういうことか」と、織穂はひとりごちた。  狐憑《きつねつ》き。  もう長いこと使っていない術だ。 「できないの?」 「挑発《ちょうはつ》しようたって、無駄《むだ》だよ」  織穂は立ち上がった。 「織穂さん……」  隆志がすがるような目を向ける。 「あの娘《むすめ》のとこに案内しなよ」  織穂はぶっきらぼうに言った。あの娘を助けるのはめんどうだが、隠せ女はやはりいらだたしい相手だ。  とっととケリをつけられるなら、それにこしたことはない。  自分の心の表面が、心の奥底《おくそこ》にそう言い訳している。 「は、はいっ」  隆志は、あわてて立ちあがった。膝《ひざ》をぶつけて、テーブルを揺《ゆ》らす。 「これが片付いたら、あんたともケリはつけるからね」  冷やかに、織穂は霧香に向かって言った。 「じゃあ、ここに来なさい。いつでも、何時間でも相手をしてあげるわ」  外に出た中箱をおさめなおして、霧香は織穂に渡《わた》した。  真っ赤なほうのマッチ箱だ。表には黒い文字で、こう書かれてあった。  BAR <うさぎの穴> 。    4 さまよう心  地下鉄営団|千代田《ちよだ》線に乗って、湯島《ゆしま》駅でおりた。歩いて十分ほどのところに正美の下宿があるらしい。  そこに行こうかとも思ったのだが、かえって周囲の目を集めることになる。  織穂は、呼びだすのに適当な場所はないかと尋《たず》ねた。  結局、下宿から少し西へいった所にある小さな公園を選んだ。隆志では出てこないだろうというので、共通の女友だちに頼むことにした。 「どんな口実にしましょう?」  という隆志の質問に、織穂はこう答えた。 「自分で考えろ。頼《たよ》るな」  隆志は、なんとか頭をひねったようだ。もし来なければ、夜中にでも襲《おそ》うだけだと、織穂は考えていた。  公園で彼女を待つあいだ、隆志は問わず語りに彼女とのことを話していた。  今までのなれそめ、そして、月曜の夜に喧嘩《けんか》したこと。 『あの夜か』  織穂が、痩せ女を見つけた夜だ。 「おとつい、バイトの給料が入ったから、仲直りに食事にでも行こうと誘《さそ》ったんですけど断わられました。ダイエットしてるからって言うんです。そのときは、乱暴に電話を切っぢゃって……それで昨日、あいつのところへ行ったんですよ」  織穂は、隆志の話を聞き流しながら、周辺の物音に注意をはらっていた。彼女の耳なら、近くが少々やかましくても遠方のかすかな音だけを捉《とら》えることもできる。 「みやげに持ってったケーキを渡したら、あいつ、俺《おれ》に叩《たた》き返したんです。文字どおり。ブルゾンを一着だめにしちゃいましたよ」  べらべらと話し続けるのは不安なせいなのだろう。それがわかっても、不安を軽減してやる気にはなれなかった。 「俺もカッとしてしまって、その場は帰ったんですけど、後でやっぱりおかしいと思って、霧香さんに相談したんです。そしたら、何か悪いものが取り憑《つ》いてるかもしれないって言われて。あいつはともかく、俺はあんまり霊《れい》とかは信じてなかったんですけど。でも、霧香さんは信用してるし……。あ、すいません。除霊師《じょれいし》の織穂さんに、こんなこと言っちゃって」  織穂の耳がぴくりと動く。 『来たのか……?』  織穂の聴覚《ちょうかく》は、東——公園のほうから近づく足音を捉えていた。しかし、それはどこかおかしかった。まるで、足を引きずって歩く老人のような足音に聞こえた。  姿はまだ見えない。 「そのへんに隠れな」  隆志は、きょとんとしている。  織穂は、説明もなしに彼を押《お》しやった。不思議そうな顔をしながらも、隆志は、公園の脇《わき》に  駐車《ちゅうしゃ》してあった小型ワゴン車の陰《かげ》に身を潜《ひそ》めた。織穂も、彼のかたわらにしゃがみこむ。  姿を見られ、警戒《けいかい》して逃《に》げられたら元も子もない。  ずりっ、ずりっ、ずりっ……。  重々しい足音が近づいてきた。  ゆっくりと、頭を車のウインドウの高さまで上げる。うっすらと緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちの自分が映るガラス越《ご》しに、その人物を見た。この寒いのにミニスカートだ。 「……正美」  隆志が呻《うめ》くような声で言った。織穂は、あのときの娘《むすめ》なのかどうか、確信が持てなかった。  精気のない顔つきと重い足取り、こけた頬《ほお》。ときどき、歩みを止めては肩《かた》を大きく動かして息をしていた。  織穂は、精神を集中すると視覚を切り替《か》えた。常人に見えないものを見ることができる。  正美の体からは、明らかに人間とは違《ちが》うオーラがはなたれていた。  つまずいたのか、彼女の体がぐらりと揺《ゆ》れる。 「正美っ!」  止める暇《ひま》もなく、隆志が飛び出していた。 「この馬鹿《ばか》がっ!」  仕方なく織穂も飛び出し、後を追った。不意を討って一気に片付けるつもりだったのに。  正美まで数歩のところで、織穂は隆志に追いついた。 「何を考えてるんだ! 奴《やつ》を逃《に》がすつもりかいっ!」  とても女のものとは思えぬ力で引きよせられ、隆志は息をつまらせていた。 「あたしに任せとけばいいんだ!」  隆志の顔をのぞきこむ。そこには、あからさまな恐怖《きょうふ》の表情が浮かんでいた。  織穂は、自分をそんなに恐《おそ》れたのかと思ったが、それが勘違《かんちが》いであることをすぐに悟《さと》った。 「あれは……、あれは本当に正美……なんですか?」 「何を言ってるんだ、お前は?」  織穂は、あらためて正美を見た。  頭蓋骨《ずがいこつ》に皮を被《かぶ》せただけの頭。落ち凹《くぼ》んだ空洞《くうどう》の奥《おく》に瞳《ひとみ》がはめこまれている。手足は極端《きょくたん》に細くなっていたために、手首には骨がくっきりと浮《う》かんでいた。膝小僧《ひざこぞう》も異様に大きく見える。  明らかにまともな状態ではない。  瞳がぎょろっと動き、隆志の姿を認めると、にっこりと笑った。  まるで、骸骨《がいこつ》がゆさぶられているみたいな笑い。 「どう、あたしスマートになったでしょ? こんなに脚《あし》を見せたって、もう気にならないの。これからも、どんどん痩《や》せるの」  水すらほとんど飲んでいないのだろう。舌がふくれあがっているせいで、もごもごとした聞き取りにくい話し方だった。 「……嘘《うそ》だ。こんなの正美じゃない」  隆志は喉《のど》からしぼり出すようにそう言ったあと、無意識に後ずさっていた。その表情は、恐怖が浮かんだまま凍《こお》りついていた。 『しょせん、こんなものか』 「結局、あんたが助けたかったのは彼女の見栄《みば》えだったわけだ」  こいつを信じなくてよかったと織穂は思った。傷つかずにすんだ。  すんだはずなのに、ちくしょう、どうしてすぅすぅと風が吹《ふ》き抜《ぬ》けていくんだ。これだから、冬は嫌《きら》いだ。 「そこで大人《おとな》しくしてな」  織穂は、隆志を突《つ》き飛ばすと正美に向き直った。 『それにしても、たった五日でここまで……』  いくら絶食したといっても、これは異常だ。おそらく、なんらかの妖術《ようじゅつ》が関《かか》わっているのだろう。 「そこまで痩せれば充分《じゅうぶん》だろ?」  織穂は、努めて低い声で言った。目が底光りしている。 「私の、邪魔《じゃま》を、しないで……」  消え入りそうな声で正美が言った。 「そいつはどっちの台詞《せりふ》? 正美って娘《むすめ》かい? それとも痩せ女、あんたなの?」  これ以上話したところで無駄《むだ》だろう。霧香に示唆《しさ》された方法を試《ため》してみるしかあるまい。 「隆志、目をつぶっていろ!」 「は、はい」  ぺたんと座《すわ》りこんだままの若者は、逃《に》げだそうとするかのように背を向けている。  それを確かめて、織穂は眼前の正美へと意識を集中させた。これだけ怯《おび》えていれば、振《ふ》り向きはすまい。信用したのではなく、推測したのだ。  織穂の耳がとがり、鼻面《はなづら》が伸《の》びる。ハーフコートの上からでも、ヒップが盛りあがるのがわかった。尻尾《しっぽ》が飛びだしたのだ。  狐憑《きつねつ》きを使うときは、こうなってしまうのである。  人通りはないが、一刻も早く決着をつけなければ。  体の中から何かが膨《ふく》れあがり、それが飛び出すような感覚があった。全身に生えだした金色の毛が逆立ち、輝《かがや》きすら発している。  次の瞬間《しゅんかん》、金色に輝く狐がそこにあった。  しかし、それも束《つか》の間《ま》、投影像《とうえいぞう》のように織穂の姿が金色の狐から出ていった。いや、体を置いて[#「体を置いて」に傍点]きたのだ。  かすかな浮遊感《ふゆうかん》……ともとれるものを感じ、視覚が中空を泳ぐ。脚ではなく、視覚が体を引っ張ってゆく。そんな感覚が続いた。  正美の体を見続けることによって、織穂は自分をそこに導いた。  彼女の憑依体《ひょういたい》が、正美の肉体に重なりあう。  暗い空間に入りこんだ、そのとき。  声がした。  意識の外側とも、内側とも取れぬ場所からその声はした。  けれども、精神の視界は黒い靄《もや》に閉ざされていて、声の主は確かめようがなかった。 『いらっしゃい、歓迎《かんげい》するわ』 『遠慮《えんりょ》させてもらうよ、痩《や》せ女《おんな》さん』 『痩せ女? 私はそう呼ばれているのね。光栄だわ。痩せてるってことは、素敵《すてき》なことですものね。ふふふ……』 『ふざけたことを! この娘の体から、とっと出ていきな!』 『それはできないわ……』 『出ていかないっていうのなら』 『しないのじゃないわ。できないのよ。だって私はこの娘に望まれてここにいるのだもの。あなたは、彼女に望まれていないわ。だから、私は出ていけない。そして、あなたも私を追い出せないの』 『そんなこと……』 『できるのなら、やってみなさいよ。さあ、私はここにいるわ。早くいらっしゃい……』 『ああ、やってやるとも!』  外部から見ていれば、金色のかすかなきらめきが正美にまとわりつき、それが正美の内部から噴《ふ》き出てきた黒い靄《もや》に駆遂《くちく》されるように見えただろう。  だが、それを観察すべき唯一《ゆいいつ》の人間である隆志は、織穂に命じられたまま固くまぶたを閉じていた。 『ほほほほほほほほほほほほ』 『くそっ、なぜだ! そんなに死にたいのか?』  天地がぐるぐると何度も回転するような不快感の後、視覚が戻《もど》ってきた。  織穂は、ごくりと唾《つば》を飲みこんで吐《は》き気《け》をこらえた。そんなみっともない姿を、敵にさらしてたまるものか。 『あいつの支配力が、あたしよりも上だっていうのか?』  認めたくはなかった。  けれど、自分ははじきだされ、やつは中に残っている。  正美が笑っていた。  声は発せられず、その顔だけが笑っていた。  自分に向けられた痩せ女の嘲笑《ちょうしょう》だ。  さっきの、あやつり人形の笑いではない。 「織穂さん、どうなってるんですか」  まだ向こうを向いたままの隆志が叫《さけ》んでいる。いつのまにか、立ち上がっていた。どうなっているのかと問われても、織穂には答えようがない。 「正美は無事なんですか? もとに戻ったんですか? あの可愛《かわい》い正美に」 「ちょっと待ってな!」  すでにできる手段を講じた後なのだ。織穂はいらだっていた。そもそも自分の目的は、痩せ女を倒《たお》すことであり、正美を救うことではなかったはずだ。  これ以上、プライドを踏《ふ》みにじられてたまるか。痩せ女は許されざる存在だ。信頼《しんらい》の心を平気で踏みにじる。そんな行為《こうい》を憎《にく》まずにいられるだろうか。もっとも、安易に信じ、頼《たよ》った者も悪い。だから、人間の命など気にする必要はないはずなのだ。  でも……。  なぜか自分でも分からない、正美を殺すなと叫ぶ声がある。 「ほほほ、この娘《むすめ》の姿が気になるなら自分で確かめてみればいいじゃない」  正美の肉体を借りて、痩せ女が呼びかけた。  その声を聞いてたまらなくなったのだろう、隆志が振り返る。織穂は、あわてなかった。もう、人の姿に戻っている。 「正美……」  隆志は、滂沱《ぼうだ》と涙《なみだ》を流していた。 「その声も違《ちが》う人みたいだけど、やっぱり正美なんだよな。なあ、やめてくれよ。こないだ言ったの、本気じゃなかったんだ」  正美の、頬骨《ほおぼね》が飛びだした顔に歪《ゆが》んだ笑《え》みが浮《う》かぶ。 「これは、私が望んだことなの。だから、手を……たす……け……出さないで」 「お前、今、助けてって言ったじゃないか」  一歩、また一歩と近づく隆志。  正美が、さえぎるように両手をつきだす。それを見て、隆志はぎょっとしたように足を止めた。  汚《よご》れた爪《つめ》がのび、指は枯《か》れ枝《えだ》のよう。まるで、童話に出てくる魔女《まじょ》の手だ。  すがるように、隆志が織穂を見る。 『そうだったか? ほんとうに、そんなこと言ったか?』  途中《とちゅう》で大きく息を吐《は》いた。そのときに、声がまじっていたかもしれない。  ほんとうに、そう言ったのなら……。  そうだ。正美の体内に入りこんだとき、暗闇《くらやみ》の底にもがくものの気配があった。  あれが正美の心だとしたなら、どうだろう。  彼女が強い意志で痩《や》せ女《おんな》を拒《こば》んだとしたら、まだチャンスはある。  だが、そのためには……。  織穂は、こちらを見ている隆志を見つめ返した。彼の瞳《ひとみ》には、深い絶望と怯《おび》えしかないように、織穂には思えた。  やはり、だめか? 「無駄《むだ》さ。この娘は死んじゃうね。だったら憑《つ》いている悪霊《あくりょう》ともども死んでもらったほうがいい」  隆志の顔にゆっくりと怒《いか》りが浮かんでくる。 「ほ、本気ですか!」 「もう、完全に取り憑かれちゃってる。あの変わりようじゃだめね。悪霊を祓《はら》ったって、もとに戻らないかもよ。弱った彼女を、一生|面倒《めんどう》みるなんて、やでしょ? 他の女の子に乗り換《か》えたほうがいいんじゃない?」  隆志は、茫然《ぼうぜん》としている。 「たまたま近くに、あの娘がいただけでしょ」 「違《ちが》う、違います。俺《おれ》は正美が……正美だから」  隆志の声は弱々しい。 「可愛《かわい》い正美だから。なんでしょ? 彼女が痩《や》せてからつきあい始めたんじゃなかったっけ? さっきはそう言ってたわよ」  きちんと聞いてなどいなかったから、あてずっぽうだが、大きくはずれてはいなかったようだ。 「そうです。つきあい始めたのは。でも好きになったのは……」  隆志は口ごもる。  だめなのか。やはり、裏切るのか。  織穂は、かすかな痛みを感じながら言葉を続けた。 「今の彼女の姿を見て、あんた逃《に》げ出そうとしてるじゃないか」  隆志が、はっとして自分の足もとを見る。公園の土に足跡《あしあと》が残っていた。  後ずさっている。 「そうだわ、あなた……」  正美の喉《のど》を使って、痩せ女が口を挟んだ。 「あなたにも、理想的な女性像があるんでしょ? この娘がなりたいと思った姿と、あなたが欲《ほ》しいと望んだ姿は違っていたのよ。もうすぐ彼女は理想の姿になるわ。骨と等しいくらいに痩せてね」  痩せ女は楽しげに歌でも歌うかのように言った。  そんな正美の姿を見て、隆志はまた震《ふる》えていた。だが、その震えは恐怖《きょうふ》や怒りによるものではないように見えた。 「そうかもしれない……」  体の震えがとまり、隆志が呟《つぶや》いていた。  織穂のほうへと向き直った彼の表情は何かがふっ切れたようであった。織穂は最初、それをあきらめの表情だと思った。 「でもな、正美。俺が本当に欲しいのはお前の心だ。大事なのは、お前の外見なんかじゃない。それでもダイエットするなら、俺がつきあってやる。そんなやつなんかに頼《たよ》るな。俺が、お前をきれいにしてやるんだ」  隆志は、逃げようとする正美に追いついて、しっかりと抱《だ》きしめた。 「この娘を支配したいのか、お前も。でもさせない。こいつは、あたしのものだ。あたしの楽しみだ」 「やっぱり、正美じゃないんだな! 正美の中から出て行け!」  隆志は、両腕《りょううで》にますます力をこめた。 「織穂さん、俺はあなたを信じてます。だからあなたも正美を見捨てないでください!」  織穂は、顔をそむけた。自分がどんな表情をしているにせよ隆志に見られたくはなかったのだ。安堵《あんど》であれ、羨望《せんぼう》であれ……。 「もう、やめ……ないで。離《はな》せ……お……、そ……、わも……」  正美の声が意味をなさなくなっていく。それが抵抗《ていこう》の現われと信じて、織穂は隆志の背後、正美の正面に回った。精神を集中させる。  彼女の口もとから、小さな牙《きば》が見え隠《かく》れする。耳が尖《とが》って、頭頂部に移動していく。  今だ!  金色の輝《かがや》きがほとばしる。 「彼女をしっかり押《お》さえておけ!」  その言葉を聞くよりも早く、隆志は織穂が望んだ以上のことをやってのけた。  正美を強く抱《だ》きしめて、口唇《くちびる》を重ねる。まるで、彼女の中から痩せ女を吸いだそうとしているかのように。 『あたしは痩せたかったんじゃない。隆志と一緒《いっしょ》にいたかっただけ!』  暗闇の中から女が叫び、そこは金色の輝きに包まれた。 『またあなたね。まだわからないの』 『今度、追い出されるのはあんたのほうだ! あんたはもう、望まれちゃいない』 『なっ、なにを訳のわからないことを……。この娘《むすめ》は』 『あたしにはわかるわ。だって今、あんたのどす黒い姿が見えているもの。中途半端《ちゅうとはんぱ》な状態のあんたに、あたしの姿は見えていないはずよ』 『ぐっ……』 『あんた、自分で言ってたじゃない。望まれているから、ここにいられるって。それって、否定されればここに存在することもできなくなるのよね。だから、あんたが余計なことをして入れなくなる前に、来させてもらったわ』 『そんな……馬鹿《ばか》な……』  金色の輝きと、黒い靄《もや》がはげしくせめぎあう。  その中で、隆志は正美に、正美は隆志にしがみついていた。 『いやだ、いやだ。出てくのはいやだ! あたしの居場所はここなんだ!』 『だめだね。あんたが、彼女を裏切ったときに、ここにいる資格をなくしたのさ。裏切り者は、必ず裏切られるんだ』 『ここでこの娘を解放したからって、あなたが感謝されるとでもいうの? あなただって、あなただってっ』 『あたしは裏切られないよ。そもそも、人を信じないんだから』  金色の輝きが、正美の体に染《し》みこんでいく。黒い靄が、虚空《こくう》でうずまいていた。 『おのれ! おのれ!』 『とっとと、元の体に戻《もど》ったほうがいいよっ』  正美の体を支配した、その瞬間《しゅんかん》。  織穂は抱きしめられているのを感じた。長い間、忘れかけていた温《ぬく》もりだった。  このままでいられたら。  そうねだる自分がいる。  けれども、そうはできなかった。  プライドは、安易に誰《だれ》かに頼ることを許さない。  そして、弱さが、傷つけられることを恐《おそ》れている。 『こうしてはいられない』  片隅《かたすみ》で震《ふる》えている若い女を見つけだして、そっと虚空の中心に押《お》しやってやる。 『あんたの体だ。自分でしっかり面倒《めんどう》を見るんだね』  織穂は、自らの体に戻った。  視覚を切り替《か》える。痩せ女の憑依体《ひょういたい》の姿が見えた。ふわふわと飛んでいく。 「彼女はまかせた。あたしは後始末をしてくる」  隆志はしっかりと正美を抱《だ》いている。もう、織穂のことなど眼中にない。  織穂は走りだした。隆志たちから充分《じゅうぶん》な距離《きょり》を稼《かせ》ぐと、周りに人がいないのを確認《かくにん》し、妖狐《ようこ》の姿になった。いや、本来の姿に戻ったのだ。  なみの狐《きつね》よりもさらに尖《とが》った鼻先、大きく豊かな双尾《そうび》を持ち、その美しい毛並みは金色に輝いていた。疾走《しっそう》するその姿は、音を立てずに飛ぶ金色の矢だった。  痩《や》せ女《おんな》の憑依体が、一|軒《けん》の古寺の中に入ってゆく。  織穂は、塀《へい》をかけのぼり、越《こ》えた。  狭《せま》い境内《けいだい》の上を横切り、お堂らしき建物へとやつは漂《ただよ》っていく。  もうあせる必要はなかった。木陰《こかげ》で人の姿に化ける。  ゆっくり近づいて、格子戸《こうしど》から中を覗《のぞ》こうとした、そのとき。  突然《とつぜん》格子戸が開かれ、転がるように、ベールの女が飛び出してきた。 「待ちなっ!」  痩せ女は素足《すあし》のまま飛びだすと、山門に向かって駆《か》け出した。  だが次の瞬間、その体は青白い炎《ほのお》に包まれていた。  織穂の手に、マッチ棒が握《にぎ》られている。いや、すでに燐《りん》が消失しているから、ただの木ぎれにすぎない。それを媒体《ばいたい》に、織穂は狐火を起こしたのだ。  痩せ女は境内をのたうちまわった。だが、燐火の勢いは、いっこうに衰《おとろ》えない。  そして、ついには痩せ女の体は動かなくなった。  焼け落ちたベール。その奥《おく》には、顔がなかった。 「あんたには、痩せた体がすべてだったってことか……」  哀《あわ》れむような視線を、織穂は炎に向けた。もう、灰だけしか残っていない。 「軽くなれたね。骨よりも、さ」  織穂の瞳《ひとみ》は、かすかに揺《ゆ》らいでいた。    5 孤高の狐  織穂が隆志たちのところへ戻ると、霧香が来ていた。  正美は、地面に敷いたロングコートの上に寝《ね》かされている。霧香のものだろう。彼女は薄着《うすぎ》のままだったが、寒そうな顔ひとつ見せなかった。 「彼女なら大丈夫《だいじょうぶ》よ。かなり衰弱《すいじゃく》しているけどね」  織穂は、無言のままうなずいた。 「さっき車を手配しておいたから、もうしばらくすれば来ると思うわ」  その言葉を聞き流し、織穂は霧香をじろりと睨《にら》んだ。 「あんた、ずっと見てたんでしょ。あたしたちのことを……」  霧香は口もとをほころばせることで答えた。 「呆《あき》れるわ……」  苦笑してみせる。利用された腹立たしさよりも、自分のことが滑稽《こっけい》に思えたのだ。  先程《さきほど》、の感知を行なったときに、痩せ女のものとは異なる強い力をも感じた。  いくらなんでも、ひとっこ一人通りかからないのは不自然だった。[人払《ひとばら》い]の妖術のしわざだろう。 『お節介《せっかい》なやつだ。まあ、あたしも人のことは言えなくなっちゃったけど……』  そこに、みすぼらしい一台のワーゲンが、がたごととやってきた。  運転席の窓から、バンダナを額に巻いた青年が顔を出す。 「病院のほうは手配しましたよ。急ぎましょ」  こいつらが、霧香の仲間か……、と織穂は思った。黒いスーツの中年男と協力して、気を失っている正美を隆志と一緒《いっしょ》に車の後部座席に運ぶ。  隆志がちらりと織穂のほうを見た。  なにか言いたげだったが、彼女は聞きたくなかった。ぷいと背中を向ける。  しばらくして、車が走りさる者が聞こえた。 「ねえ、織穂」  霧香の声は優《やさ》しい。  太郎サの声も優しかったのだ。 「私たちは、しょせん人間たちを偽《いつわ》らなければ生きていけないわ。でも、できるかぎり正直に生きてくためには、一人より二人のほうが都合がいいのよ。隆志くんと正美ちゃんのようにね」  ネットワークについては、織穂も聞いている。互《たが》いに助けあう妖怪たちの組織だ。  織穂は、霧香のほうに向き直った。彼女にしては珍《めずら》しく、じっと霧香の目を見すえたままだ。 「そうかもね」  霧香たちとともにいると、自分の信念が曲げられそうになる。それは、過去の自分に対する裏切りの行為《こうい》だ。たとえ自分自身のことであっても、織穂はそれを許すわけにはいかなかった。  いや、本当はできなかった。  怖《こわ》いのだ。  手のひらを返すことが、いかに容易《たやす》いか知っているから。  自分だって、隆志の信頼《しんらい》を裏切ろうとしたではないか。 「でも、あたしの趣味《しゅみ》じゃない。他人に頼《たよ》ってくるやつらの尻《しり》ぬぐいをしてまわるのなんてね。もっとも、嫌《きら》いなやつをぶっとばすのは好きだけどさ」  結論を急いで出すことはない。  織穂は、くるりと踵《きびす》を返した。そして、街の喧騒《けんそう》の中へと、ひとり歩いていく。 「ライター切らしてるから、これはもらっておくよ」 <うさぎの穴> の真っ赤なマッチ箱を頭上に放《ほう》り投げて、織穂は言った。 [#改ページ] [#ここから5字下げ]  どうやら、時間に間に合ったようです。  脇道《わきみち》の先にあったのは、目的のビルの裏口でした。おかげで、行列に捕《つか》まらずにすみましたから。  おっと、ずるをしたわけではありませんよ。私は一応ゲストですから。一般《いっぱん》のお客さんが並んでおられる横から入るのも、少し具合が悪いじゃありませんか。  迷《まよ》ったおかげで見つけた店で、今日のセッションの演出にちょうどいい食玩《しょくがん》フィギュアも見つけたことですし。  今日、私がやってきたのは、テーブルトークRPGのイベントなのですが、御存知《ごぞんじ》でしょうか?  ゲームマスターと呼ばれる進行役のもとで、自分の分身となる架空《かくう》のキャラクターを作り上げ、現実の日常とは異なる架空の世界で、さまざまな冒険《ぼうけん》に挑戦《ちょうせん》する遊びです。物語作りであり、パズルであり、戦闘《せんとう》シミュレーションでもあり、幾層《いくそう》にも重なりあった、いろいろな面を持つ、電源不要のゲーム。  お互いの想像力を駆使《くし》したコミュニケーションのゲーム。それを一堂に会して遊ぼうというわけなのです。  今日、私は『妖魔夜行《ようまやこう》』というゲームのマスターをつとめます。  他のテーブルでは、人間になって平凡《へいぼん》な学校生活を送ったり、会社につとめてみたり、我々の日常とはまったく違《ちが》う『冒険』がくりひろげられているようです。妖術も妖力も使えなくては、四苦八苦ですよね。  私の卓《たく》でも、自分とは別の『力』を使うには、いろいろ頭をひねらなければなりません。妖怪《ようかい》である私たちが、別の妖怪を演じるというのも、人にあらざる者同士の相互《そうご》理解を深めるのには、なかなかに役立つものなのですよ。さて、遊びのようすを、ちょっとお目にかけましょうか。戯曲《ぎきょく》めいた書き方ですが、想像力を駆使《くし》した台詞《せりふ》のやりとりと、サイコロの目という偶然《ぐうぜん》の導きで進むストーリーをどうか楽しんでください。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第五話  どっきり! 私の学校は魔空基地?  山本弘   怪奇! 深夜に響く鈴の音   宇宙人に狙われた少女   恐るべし、女子高生!   輝之介の大失策   笹岡黎奈の秘密   隠れ里の大決戦! [#改ページ] キャラクター絡介 穂月《ほづき》湧《ゆう》  私立|大利根《おおとね》学園に通う十六歳の女の子で、正体は女郎蜘蛛《じょろうぐも》。人間の両親から生まれたのだが、ある日|突然《とつぜん》、先祖の形質が発現した。本人は妖怪《ようかい》も蜘蛛も大|嫌《きら》いで、普通《ふつう》の女の子に戻《もど》りたいと切実に願っている。柔道《じゅうどう》部の三条院《さんじょういん》先輩《せんぱい》に片想《かたおも》い中。  妖怪としての姿は、下半身が蜘蛛の美女。主な武器は指先から放つ細い糸で、敵を絡《から》め取ったり切り裂《さ》いたりできる。指向性の鋭敏《えいびん》な聴覚《ちょうかく》や、夜でも見通せる目を持ち、妖怪の姿なら垂直の壁《かべ》を昇《のぼ》ることができる。 館《たち》輝之介《てるのすけ》  妖刀・五代目|村正《むらまさ》。刀が造られたのは室町《むろまち》時代だが、江戸《えど》時代から眠《ねむ》っていて、妖怪化したのはつい最近。性格は生真面目《きまじめ》で、武士道に忠実。喋《しゃべ》り方が古臭《ふるくさ》い。  妖怪としての姿は、青白い光を放つ若武者。服を着替《きが》えると高校生ぐらいの美少年になる。実際には若武者の方が分身で、彼の持ち歩いている刀の方が本体である。必殺技《ひっさつわざ》[烈風斬《れっぷうざん》]で敵を切り裂く。また、刀を手にした人間に、一時的に日本刀の技能を付与《ふよ》することもできる。 久万野《くまの》三太《さんた》  熊《くま》のぬいぐるみに魂《たましい》が宿って妖怪化した。心|優《やさ》しいがものぐさな性格。子供が大好きで、普段は太った青年に化け、幼稚園《ようちえん》の保父をしている。  本来の姿は身長八〇�ぐらいの熊のぬいぐるみだが、戦闘《せんとう》時には2倍に巨大《きょだい》化し、体力も大幅《おおはば》にアップ、鉤爪《かぎづめ》で攻撃《こうげき》する。四〇�サイズに縮むこともできる。火や水に弱い。 土屋《つちや》野呂介《のろすけ》  通称「教授」。正体はモグラの妖怪・土龍精《どりゅうせい》で、普段は某《ぼう》私立大学で考古学を教えている。モグラだけに日光に弱く、高所恐怖症《こうしょきょうふしょう》。  妖怪の姿は大きなモグラ。大地を刃物《はもの》状に変形させて敵を切り裂く妖術[地斬波《ちざんは》]が武器。また、[分析《ぶんせき》][来歴感知][植物感知]などの感知系妖術も使える。 水波《みなみ》流《りゅう》  中国の龍と日本人女性の間に生まれたハーフ。ハンサムなプレイボーイで、かわいい女の子には目がない。  金色の龍の姿に変身すると、空を飛び、口から水や電撃を放つ。怪力を持ち、鉤爪で攻撃することもある。    怪奇! 深夜に響く鈴の音 GM「唐突《とうとつ》だけど、湧ちゃんと輝之介くんは、偶然《ぐうぜん》にも同じ高校に通っている」 三太「偶然かなあ?(笑)『あそこは湧ちゃんがいるから入れちゃえ』とか言って入れたんやないかな」 湧「そんな気がする(笑)」 GM「でも、湧ちゃんのほうが嫌《いや》がってる」 湧「ぶつぶつぶつぶつ。なんであたしがあんな時代|錯誤《さくご》な妖怪の面倒《めんどう》を見なくちゃいけないのよお」 三太「『湧どの!』とか言って相談持ちかけられたりするんだよね(笑)」 GM「いちおう容姿は美形なんやけどね」 湧「それを冷たくあしらってるもんやから、きっと妙《みょう》な噂《うわさ》が立ってるに違《ちが》いないわ(笑)。あんたが寄ってくると三条院先輩に妙な目で見られるから、来ないでちょうだい」 GM「ちなみに二人が通っているのは、私立大刀根学園」 湧「ヤクザそうな学校!(笑)」 GM「ある土曜の晩、二人ともクラブ活動で遅《おそ》くまで学校に居残っている」 三太「輝之介くんのクラブは?」 GM「やっぱり剣道《けんどう》部かな?」 流「日本刀の妖怪が剣道部……それは卑怯《ひきょう》すぎる(笑)」 輝之介「茶道《さどう》部ということにしましょう。古風ですから」 教授「よく茶道部なんか存続してるな、この不良学校で(笑)」 湧「それは名目だけで、不良のたまり場になっていたのを、輝ちゃんが入部して、まともな茶道部にしてしまったという……学園ドラマの顛末《てんまつ》があったに違いない」 GM「今は夜の一〇時|頃《ごろ》。茶道部員と女子柔道部員が、夜中まで部室でダべりながら、怪談話をしております。『ねえねえ知ってる? あのプールねえ、真夜中に鈴《すず》の音が鳴るんだって』」 湧「また妙な事件にかかわるのは嫌だなあ、と思っている。でも『好奇心《こうきしん》』があるから根掘《ねほ》り葉掘り聞くのか……」 GM「さすがに時刻が遅くなったので、女の子たちはそろそろ帰ろうかと言ってます」 湧「とっとと帰ろう。(輝之介に)あんたは送らなくていいからね(笑)」 輝之介「いやいや、婦女子をこのような夜遅くに歩かせるのは……」 GM「さて、君たちがボックスから出ると、周りはシーンと静まり返っている。するとプールのほうから『チリーン、チリーン』という鈴の音が……」 湧「あー、かかわりたくない!」 GM「女の子たちは『きゃーっ』と叫《さけ》んで逃《に》げてしまった」 湧「はっと気がつくと、あたしと輝ちゃんだけ」 GM「そのとき、湧ちゃんの[指向性|聴覚《ちょうかく》]に、鈴の音とは別の方向から、『助けて……苦しい……』という女の子のうめき声が……」 湧「画面が急に耳のアップになる(笑)。はっ! どこかで誰かが叫んでる!」 GM「スパイダー感覚に感知あり!(笑)校舎の上から聞こえてくるね」 湧「すぐに輝之介にも声をかけて、校舎のほうに走って行きます。輝ちゃん、おいで」 GM「見ると、屋上で誰かがもみ合っているのが見えます」 湧「うーむ、ここはやっぱり、壁《かべ》を登っていくしかないのかな?」 輝之介「私も担《かつ》げますか?」 GM「一人ぐらいならできるだろう」 湧「ああ、やりたくない!(笑)でも、壁登りをやろうとすると、妖怪の姿に戻《もど》らなきゃいけないんだよね。あたりに人目は?」 GM「ない」 湧「でも、屋上に人がいるんでしょ? 正体をばらしたくはないけど……」 GM「蜘蛛《くも》に変身したら、顔も変わるから大丈夫《だいじょうぶ》だよ」 湧「ええい、変身しよう! 蜘蛛になって壁を登っていくわ」 輝之介「私も担いでください」 湧「刀に戻れ、刀に!(笑)」  女郎《じょろう》蜘蛛に変身した湧は、日本刀の姿に戻った輝之介を手に持ち、校舎の垂直の壁を這《は》い登る。屋上で彼らが目にしたものは……。 GM「二人の男が女の子を取り押《お》さえてるね。二人とも服装は黒ずくめだ」 湧&輝之介「怪《あや》しい!」 湧「とりあえず声をかけましょう。あんたたち、こんなところで何してるのよ!」 GM「すると二人は女の子を突《つ》き飛ばして、懐《ふところ》から銃《じゅう》を取り出そうとしてるよ」 湧「行け、輝ちゃん! 刀は投げ捨てたから、分身を現わしなさい。ところで、相手はあたしたちの正体を見て、怖《こわ》がってないんですか?」 GM「怖がってる様子はないね」 湧「むむ! これは怪しい。ただの人間じゃないわ。そうとわかれば遠慮《えんりょ》はいらない」  1ターン目、湧は男の一人に向けて[絡《から》みつき]の妖術《ようじゅつ》を準備、武者の姿を現わした輝之介は、日本刀(自分自身)を振《ふ》りかぶって敵に接近する。二人の黒服の男は銃を抜《ぬ》いて構えている。  2ターン目、湧の放った糸は男Aに絡みつき、Aは身動きできなくなった。輝之介はもう一人の男Bに斬《き》りかかったが、手加減していたので軽傷しか与《あた》えられない。男Bの手にした銃からは怪光線《かいこうせん》(!)が発射されたが、輝之介はそれをかわす。  3ターン目、湧は男Aをさらに糸で攻撃《こうげき》するが、男Aは非実体化してすり抜ける。輝之介は男Bを[烈風斬《れっぷうざん》]で攻撃。これが見事に決まって、男Bは真っ二つ。死体は赤く燃えて消滅《しょうめつ》した。    宇宙人に狙われた少女 湧「『安心しろ、峰打《みねう》ちだ』という言葉はないの、あんたには?」 輝之介「この妖術、『全力のみ』なんですよ」 GM「残った男は、さすがに逃げるそぶりを見せている」 湧「降参しなさい! あんた何者?」 GM「男は何も答えない。すると突然《とつぜん》、プールの中から、明るい光がピューッと飛び出してきた」 湧「何ーっ!?」 GM「いわゆるUFOというやつだね。円盤《えんばん》は君たちの頭上までやって来ると、その底部から光線を発射した。それが男に当たると、男は円盤に吸い上げられていく」 湧「そーゆーことをするんだったら、いちおう[切断糸]なぞ飛ばしてみますけど」 輝之介「拙者《せっしゃ》は[烈風斬]じゃ」  空瓶ぶ円盤([破壊《はかい》光線]の代わりに[引きよせ]を装備したタイプ)は、黒服の男を回収したものの、湧の[切断糸]と輝之介の[烈風斬]のダブル攻撃で大きなダメージを受け、慌《あわ》てて高度を上げて飛び去った。 湧「とりあえず姿を元に戻して……あっと、あの女の子は?」 GM「いかん、女の子の恐怖《きょうふ》判定するのを忘れてたな……コロコロ(サイコロを振《ふ》る)。失敗してるなあ」  女の子は恐怖のあまり気を失っていた。その間に二人は人間の姿に戻り、彼女を介抱《かいほう》する。 湧「ぺしぺし(女の子の頬《ほお》を叩《たた》くしぐさ)。ちょっと輝ちゃん、ハンカチを水道で濡《ぬ》らしてきなさい」 GM「やがて女の子は目を覚ます」 湧「いったい何があったの? 悲鳴が聞こえたんで駆《か》けつけてきたんだけど」 GM「『変な男に襲《おそ》われたら、蜘蛛《くも》の姿をした女の人が現われて……ああ!』と恐怖の表情を浮《う》かべている」 湧「落ち着いて落ち着いて。そういえば、蜘蛛のような姿をした正義の味方が学園に現われたって噂《うわさ》を聞いたことがあるわ(笑)」 GM「誰《だれ》だよ、そんな噂流してるのは?」  少女の名は笹岡《ささおか》黎奈《れいな》。この学校の二年四組の生徒である。湧たちは詳《くわ》しい事情を尋《たず》ねたものの、ひどいショックを受けており、口が重い。やむなく湧と輝之介は、彼女を自宅まで送っていった。  輝之介は <うさぎの穴> へ報告に行く。店には三太、流、教授が来ていた。輝之介は彼らに、今夜起きたことを説明した。 教授「屋上で! 明るい光!(笑)」 三太「プールから水が!(笑)」 教授「我々にはちょっと荷が重いな。でも、八環《やたまき》さんは山にこもっちゃってるし……放《ほう》っておくわけにはいかんでしょうね」 三太「いっぺん現場に行ってみますか?」 教授「そうだねえ。ちょっと屋上で[来歴感知]でも……屋上!?(笑)」 三太「教授、こらえてこらえて」 流「いやあ、高いところからの眺《なが》めは気持ちいいですよぉ(笑)」 GM「これから学校に行って調査するの? もう真夜中だけど」 輝之介「電車がないんだったら、お化けワーゲンに乗って行きましょう」 教授「あれ、ワーゲンって免許《めんきょ》のない奴《やつ》は運転席に乗せないんだっけ?」 三太「免許なんてないよ」 教授「ないよ」 輝之介「ありません」 流「オートバイの免許なら(笑)」 GM「でも、小説で流を乗せてたから、いいんじゃないかい?」 教授「じゃあ、流くん、オートバイ免許でも持っておきなさい」 GM「大丈夫《だいじょうぶ》。キャラクター・シートには『免許』と書いてあるだけで、何の免許とは書いてない(笑)」 教授「なあんだ! 調理師免許でもいいんだ(笑)」 三太「私も免許持ってますが」 流「保父免許でどないすんねん!(笑)」  四人はお化けワーゲンに乗り込み、深夜の学園に到着《とうちゃく》する。塀《へい》を越《こ》えて内部に侵入《しんにゅう》し、教授が高所恐|症《しょう》をこらえながら校舎の屋上で[来歴感知]を行なったが、たいしたことはわからない。  さらにプールに潜《もぐ》って調査を行う。教授の[来歴感知]によれば、ここ数週間、空飛ぶ円盤が何度もプールに出入りしているらしい。だが、プール自体に異常はない。    恐るべし、女子高生!  翌日の日曜日、湧は黎奈を心配して見舞《みま》いに行く。しかし、黎奈は昨夜のことで動揺《どうよう》して寝込《ねこ》んでおり、誰にも会いたくないという。やむなく湧は引き揚《あ》げる。  その日は結局、何の収穫《しゅうかく》もないままに過ぎ去った。また黒服の男が現われるといけないので、輝之介と三太は黎奈の家の前で張り込みを行うが、何も異変は起きない。  そして月曜日——。 GM「月曜日の登校|途中《とちゅう》です」 湧「ルンルルン♪ ルンルルン♪」 GM「君の級友の烏丸《からすま》詩織《しおり》と河原崎《かわらざき》亜紀《あき》が声をかけてくる(『妖怪伝奇《ようかいでんき》』のプロローグのセリフを読み上げる)『おっはよーっ! ゆーちゃん』『ねえねえ、ゆーちゃん、この前のビデオ、見た?』」 湧「(戸惑《とまど》って)は? な、何のこと?」 GM「君はこの前、妖怪もののアニメのビデオを亜紀ちゃんから借りたんだよ」 湧「あ、ごめん。まだ見てない」 GM「いや、君は昨日の晩のうちに見ちゃったんだ。で、つまらなかったんで返そうと思って持ってきた」 湧「は、はあ、そうですか……」  実はこのセッション、GMは『ガーブス・妖魔《ようま》夜行/妖怪伝奇』(角川スニーカー・G文庫)のプロローグ「妖怪なんて大|嫌《きら》い!」とリンクさせようという意図があったのである。湧と詩織たちの会話の背後では、こんな事件が起きていたんだよ……というわけだ。  興味のある人は『妖怪伝奇』も読んでみてね。 GM「まあ、途中《とちゅう》の会話はちょっと省略して……『そうそう、知ってる? うちの高校にも妖怪が棲《す》んでるって話?』」 湧「(あせって)さ、さあ……」 GM「『本当よ、この前の土曜日、四組の笹岡さんが見たんだって』」 湧「ど、どこで聞いたの、その話?」 GM「『ん? 笹岡さんが電話で友達に話したのを、さらにその友達の友達の友達の……っていうように、どんどん広がっていったみいよ』」 湧「たはーっ! 女子高生のネットワークは広がるのが早い〜っ!(笑)」 GM「『長い髪《かみ》を垂らしたすごい美人なんだけど、下半身が大きな蜘味《くも》なんだって』」 湧「蜘蛛? 蜘蛛はやだなあ。気持ち悪いから会いたくないや。つつー(額に汗《あせ》が流れる音)。で、でも、その笹岡さんって人、なんでそんなもの見たのかしら」 GM「『そこまでは知らないわよ。あの人、天文部だから、部活で遅くなったんじゃないの〜』」 湧「へえ〜、天文部なんだ」  教室に入った湧は、さっそく同じクラスで天文部に所属している海野《うんの》に話しかける。  海野の話によれば、笹岡黎奈は最近、天体観測中にUFOを見たとか、奇妙《きみょう》なことを口走っているらしい。だが、彼女以外の天文部員は誰《だれ》一人、UFOなど見ていないという。昼休み、輝之介と湧は黎奈に話を聞きに行く。彼女は二人が自分を助けた妖怪と同一人物だとは気づいていない。 湧「ちょっと聞いたんだけど、あなたって妖怪だけじゃなくUFOも見たんだって?」 GM「すると彼女はせっぱ詰《つ》まった様子で君たちを見つめる。『あなた方、UFOをごらんになりました?』」 湧「そういえば、あの土曜の晩、光るものが空に飛んでいくのを見たわ。あなたが倒《たお》れているのを見つける直前に」 GM「『ああ! やっぱり夢じゃなかったのね!』」 湧「あれがUFOというものなのかしら? 初めて見たのはいつ?」 GM「『先々週のことです。天文部の部活で屋上で観測をしていたときに……』」 輝之介「じゃあ、君だけじゃなく、その場にいた天文部員は全員見たわけ?」 GM「『はい。大きな物体がプールに入っていくのをみんなで見たんです。写真にも撮《と》りました。これはすごい、雑誌に売りこもうという話になったんですけど……』」 湧「ところが……」 GM「『はい。何日かたつと、みんなそんな話、覚えてないって言うんです。おまけに撮ったはずの写真もなくなってしまって……』」 輝之介「あの晩はどうしてあそこに?」 GM「『同じ天文部の高橋《たかはし》さんのところに電話をかけたら、天文部の部活に出かけてるって言うんです。でも、その晩は部活なんかなかったんです。それで悪い予感がして、学校に来てみたら……』」  黎奈の話を総合すると、どうやら宇宙人たちが天文部員の記憶《きおく》を操作して、UFOを目撃《もくげき》した記憶を消してしまったらしい。しかし、なぜ黎奈だけ消されなかったのか? 輝之介「うーむ、これは天文部に探《さぐ》りを入れる必要があるでござるね」 湧「そろそろ放課後か……あれ、今日は柔道《じゅうどう》部の部活は?」 GM「月曜日は部活はない。プロローグにちゃんとそう書いてある(笑)」 湧「じゃ、あたしはさっさと家に帰ります。(輝之介に)夜中の見張りとかは、あんたらに任せたから。あたしは真面目《まじめ》な女子高校生だから、夜中には出歩きません」 GM「さて、湧ちゃんが家に帰ってしばらくすると……もうわかったと思うけど」 湧「わかりたくない!(笑)」 GM「かなたちゃんと大樹くんが君の家を訪《たず》ねてくるね。『穂月さーん。いらっしゃいますかあ?』」 湧「はいはいはい(笑)」 GM「『お忙《いそが》しいところをすいません』」 湧「(『妖怪伝奇』を読みながら)もう厄介事《やっかいごと》はお断りだって言ったでしょ!?」 GM「かなたちゃんが言うには、『例の笹岡黎奈さんのことなんだけど……、彼女を襲《おそ》った男、やっぱりイーバだったらしいの』……とまあ、君たちがそんなことを話していると、奥《おく》からお父さんが顔を出す。『おや、いらっしゃい』『あ、お邪魔《じゃま》してまーす』『よく来たね、玄関《げんかん》で立ち話もなんだから、応接間に上がりなさい。クッキーでも出そう』『うわあ、ほんとうですかあ?』」 湧「あ、こらこらこら!」  大樹が持ってきた情報によれば、最近、日本上空のUFOの動きが活発になっているという。どうやら大刀根学園が彼らの基地として使われているらしいのだ。 湧「やっぱりプールが割れて秘密基地が現われるのかしらねえ(笑)。なんだか古いアニメみたいな話ね」 GM「『というわけで、あの学園はあなたの学校ですので、ぜひあなたに調査していただきたいと……』」 湧「それ以上言わないで! (『妖怪伝奇』を読みながら)学校の中で悪事が行われているのが事実なら、放っておけないわ。ああ、自分の正義感の強さが恨《うら》めしい(笑)」  その夜、五人はいったん集結し、対策を協議した。 流「俺《おれ》、まだ笹岡さんの顔、見てないんだけど……女の子の顔が見えないと、いまいち、やる気が起こらんのだよな(笑)」 湧「じゃあ、流くんは笹岡さんをガードしていて。いっそナンパしてもいいけど」 GM「それ、『正義感』が許すのか?(笑)」 湧「ナンパという名目でガードさせるのよ!」 流「天文部かあ。これはもう、口説き文句は、『星を見に行かないか』しかないな」 輝之介「流、星見てわかるのか?」 三太「『あれがオリオン座だよ』とか言ったりして(笑)」 輝之介「しかし、流と笹岡さんは面識がないからなあ……」 流「じゃ、ガード役は君に任せた。その代わり、あとで紹介《しょうかい》して(笑)」 GM「なんや、それは!(笑)」 湧「しかし、流くんと一緒《いっしょ》に行動すると、『デートしよう、デートしよう』ってうるさいんだよね」 輝之介「流のふらちな悪行|三昧《ざんまい》は、ちょっと目に余るものがあるな。そのうち斬《き》り捨てねばならん(笑)」 湧「とりあえず、輝ちゃんを笹岡さんの警備に残して、私たちは学校を調べましょ」 三太「珍《めずら》しく穂月さんが自分の血に目覚めて、使命感に燃えてるようだ」 湧「黙《だま》れ(笑)」    輝之介の大失策  真夜中、輝之介以外の他の四人は、天文部の部室に忍《しの》び込んで調べてみたが、UFOの写っている写真は見当たらない(とっくに処分されてしまっていたのだ)。  一方、輝之介が黎奈の家の周囲を見張っていると、いかにも怪《あや》しそうな黒服の男が現われる。輝之介が「尾行《びこう》」技能を使って、そいつを尾行すると……。 GM「そいつは尾行されていることに気づかずに、笹岡さんの家の前までやってくる。と、その体が壁《かべ》をするっと通り抜《ぬ》けて、家の中に入っていく……」 輝之介「ええっ!?」 三太「お前が驚《おどろ》くなよ、妖怪《ようかい》のくせに(笑)」 輝之介「これは困った」 三太「扉《とびら》をずんばらりんと斬って、中に踊《おど》り込む!」 輝之介「そんなことはできぬ。家の外で見てるしかないでしょう」 三太「え? 助けに行かないの?」 輝之介「だって真夜中でしょ? 夜中に他人の家を訪問するのは、いくらなんでも怪しすぎる。ここで待っていて、何かあったら飛び込んでいくことにしましょう」  おいおい、輝之介くん。それはいくらなんでも優柔《ゆうじゅう》不断じゃないのかな。もし黎奈が殺されたらどうする気だったの? 他のプレイヤーもやきもきしながら見ているぞ。  ま、この場合は幸いにも、彼女は殺されずにすんだのだが……。 GM「やがて壁の中から男が出てくる」 輝之介「ばったり鉢合《はちあ》わせするわけですよね。相手の反応は?」 GM「それはもう、銃《じゅう》を抜いてるよ」 輝之介「いいの? こんなとこで戦っても?」 GM「周囲に人影《ひとかげ》はないけどね」 輝之介「とりあえず様子を見よう。一発ぐらいなら撃たれてもいいや」 GM「いや、相手も銃を構えてるだけだ」 輝之介「じゃ、にらみ合いですね」 GM「そいつは言う。『お前、日本妖怪の仲間か?』」 輝之介「いかにも」 GM「『この件から手を引け』」 輝之介「彼女に何をした?」 GM「『何もしていない』」 輝之介「ほんとに?」 GM「『何もしていない』」 輝之介「本当のことを言わないと斬る!」 GM「『嘘《うそ》だと思うなら、中に入って確かめてみればよかろう』と言いながら、そいつは後ずさりして、立ち去る様子を見せている」 輝之介「よし、いったん立ち去らせて、尾行してやろう」 教授「でもって、逃《に》げられるんやな。お前なー、おい(笑)」 輝之介「だって、こんなところで戦うわけにいきませんもん」 湧「戦ったっていいじゃん」 教授「それ以前に、家に入るのを阻止《そし》するべきだったよなー」  案の定、輝之介は見事に尾行をまかれてしまった。 輝之介「湧どの、すまん、面目《めんぼく》ない!」 湧「ほんとに面目ないわ(笑)。スパイダー・ストリングで締《し》めてあげる。ギューッ!」 輝之介「やめて! せめて切腹させて(笑)」 湧「やかましい! あんたなんか首吊《くびつ》りで充分《じゅうぶん》よ!」 三太「また穂月さんが輝之介くんとじゃれている(笑)」 流「嫌《いや》よ嫌よも好きのうち、というやつですね」 湧「うるさい! 蹴《け》るわよ!(笑)」  翌日、笹岡黎奈は登校してきたが、目に見えて顔がやつれている。 湧「どうかしたの、笹岡さん?」 GM「びくっとして、『いえ、なんでもありません』」 湧「ひょっとして誰《だれ》かに脅《おど》かされてるとか?」 GM「(力強く)『そ、そんなことはありません!』」 湧「たーっ、語るに落ちてるわ!(笑)」  昨夜、寝室《しんしつ》に侵入《しんにゅう》してきた黒服の男に「これ以上|喋《しゃべ》ったら殺す」と脅された黎奈は、すっかりおびえてしまい、口が固くなっていた。湧が質問しても、「なんでもありません。放《ほう》っておいてください」と繰り返すばかり。  それでも湧はしつこく黎奈につきまとい、なんとか口を開かせようとする。 湧「心配事があるなら話してみてよ。知り合いには腕自慢《うでじまん》が何人もいるし、あたしもこう見えても黒帯だから」 GM「『柔道《じゅうどう》なんて、あんな奴《やつ》には何の役にも立たないわ……』と言ってしまってから、彼女ははっと口を押《お》さえる」 湧「柔道が役に立たない相手というと……」 教授「アースクエイクとか(笑)」 流「投げられない!」 三太「しかし『真』になれば投げられる」 GM「『これ以上、私につきまとわないでください。さもないと私……私……』と言って彼女はおびえている」 湧「大丈夫《だいじょうぶ》! あなたのことはこのあたしが守ってあげる!」 輝之介「ああ、そのセリフは拙者《せっしゃ》が言いたかったでござるよ!(笑)」 湧「お願い、信じてちょうだい。がっしと肩《かた》をつかんで、目を覗《のぞ》き込みましょう」 GM「『でも、普通《ふつう》の人ではとても……ああ、私を助けてくれた蜘蛛《くも》の女の人みたいな人がいてくれれば』」 湧「ぎくっ! でも正体は明かせない」 GM「そのうち、彼女ははっとして顔を上げる。『ねえ、あなた。この学校に伝わる伝説を知らない? どこに行けばに会えるとか……』」 湧「え、えーと……(あせって)そういえば、こんな伝説を聞いたことがあるわ。ある場所に特別のサインを残しておくと、夜中に妖怪がやって来て、助けてくれるんだそうよ。試《ため》してみたらどうかしら?(笑)えーと、なんて書かそうかな?」 GM「XYZとか?」 湧「それはまずいから……(少し考えて)えーと、学校の裏門の近くに木が生えてるでしょ? あの横の壁《かベ》に赤いチョークでうさぎの絵を描《か》いて、名前を書いておくと、妖怪がその人のところにやって来るそうよ」 GM「『ほんとなのかしら? でも、いちおう試してみるわ』」 湧「(力強く)ええ、試してみる価値はあると思うのよ!(笑)」 GM「彼女はさっそくチョークを持って裏門に走って行ったよ(笑)」 湧「さあ、今夜、会いに行こう」    笹岡黎奈の秘密  相談した末、黎奈と接触《せっしょく》するのは、外見のかわいらしい三太の役目となった。まず湧が女郎《じょろう》蜘蛛に変身して、笹岡家の屋根の上に登り、糸を垂らして、四〇センチぐらいの大きさの熊《くま》のぬいぐるみになった三太を、操《あやつ》り人形《にんぎょう》のように吊《つ》り上げるのだ。 三太「とんとんとん、外から寝室の窓をノックしてみましょう」 GM「そしたら笹岡さんは、はっと驚《おどろ》いて……(恐怖《きょうふ》判定のサイコロを振《ふ》る。結果は成功)『まあ、なんてかわいい!』(笑)」 三太「そんなほんとのことを、あはは」 GM「彼女は窓をがらっと開けて、君を中に入れてくれるよ」 三太「お呼びにより、参上しました」 GM「『あなたが妖怪さん?』」 三太「うむ、そうなんじゃ(笑)」 GM「その『じゃ』は何だ?(笑)」 湧「いちおう[指向性|聴覚《ちょうかく》]で全部聴《き》いてますからね。変なこと言ったら承知しない」 GM「黎奈さんはすっかり感動してるようだね。『私、子供の頃《ころ》から妖怪の話をいろいろ聞かされてましたけど、本当にいるなんて思いませんでした』」 三太「うむ。妖怪もいろいろいるぞ。わしのようなかわいい妖怪にはじまって、ドラゴンだの、蜘蛛だの、モグラだの……」 GM「『じゃあ、河童《かっぱ》なんていうのもいるんですか?』」 三太「いるいる」 GM「『知らなかった……私、昔、おばあちゃんから、うちの先祖は河童だって聞かされたことがあったんです』」 三太「おや?」 湧「それでか! それで[記憶《きおく》操作]にかからなかったんだ!」 GM「『江戸《えど》時代のことですけど、人間に変身した、雌《めす》の河童がいたんです。彼女は人間の世界を見物にやって来たんですが、人間の男に恋《こい》をしたために、河童の国に帰れなくなってしまったんです。なぜなら、河童の国へ通じる入口を開くためには、けがれない若い娘《むすめ》が鈴《すず》を鳴らさなくては、ならないんです』」 湧「それよ、それ! 鈴のことをすっかり忘れてた!」 GM「『娘は人間の男と結ばれて、けがれを知ってしまったために、河童の世界に帰れなくなってしまったんです。でも、どうしても故郷が忘れられず、十年後、自分の娘に鈴を振らせ、河童の国に帰って行ったそうです』」  黎奈は三太に事情をすべて話す。 GM「『……ゆうべはその宇宙人が私の枕元《まくらもと》に現われて、喋《しゃべ》ったら殺すって脅《おど》すんです』」 三太「ふん、そんな宇宙人など、わしにかかれば、ちょちょいのちょいじゃ(笑)」 輝之介「……と、かわいい熊が言うわけ?」 GM「黎奈は疑わしそうに君を見てるよ」 三太「よし、ここは私の強さを見せつけるために、巨大化《きょだいか》してみせましょう。ここは天井《てんじょう》が低いから、とりあえず人間ぐらいの大きさになって、こうだ! と言って、爪《つめ》をジャキーンと伸《の》ばします」 GM「お前はウルヴァリンか?(笑)」 湧「本屋さんへ急がなくっちゃ(笑)」  すみませんねえ、94年にやったセッションなもんで、ギャグのネタが古くて(苦笑)。アニメ版『X—MEN』の中でやってた竹書房のCMなんて、覚えてる人、少ないかも。 湧「わかったわ。じゃあ、後でこのけがれないあたしが、鈴を振ってみましょう。そうすると河童の隠《かく》れ里《ざと》への通路が開いて、そこに宇宙人の秘密基地があるかもしれない」 GM「だいたい、誰《だれ》もあの場所の歴史とか、調べようと思いつかなかったもんね」 教授「普通は思いつきませんよ」 流「宇宙人の秘密基地は河童の里にあった!」 湧「さしもの矢追《やおい》純一《じゅんいち》も、ここまでは思いつくまい!(笑)」 教授「やだなあ、南極につながってたりしたら(笑)」 湧「ヒトラーがいると嫌《いや》だな。でも、ヒトラーっているかもしれない。みんながヒトラーは生きていると思い込めば……」 教授「じゃ、妖怪プレスリーもいるな(笑)」  深夜なので鈴はどこにも売っていない。すぐに三太が家に帰って、ぬいぐるみについていた鈴を取ってきた。一行はそれを持って、大刀根学園のプールへ急ぐ。 湧「ちりりーん、ちりりーん」 GM「湧ちゃんが鈴を鳴らすと、プールの底が暗くなってきた」 一同「おお!」 湧「ちりりーん、ちりりーん」 GM「どんどん暗くなっていって、底に大きな穴が開いているように見える」 流「じゃ、行ってみようか」 GM「三太はどうするの?」 三太「半透明《はんとうめい》のゴミ袋《ぶくろ》を用意してるんで、それに二重に包んでもらって、流くんに運んでもらいます」 湧「ちなみに、あたしはちゃんとスクール水着は用意してますからね」    隠れ里の大決戦!  一行はプールに飛び込み、底へ底へと潜《もぐ》っていく。やがて到着《とうちゃく》した場所は……。 GM「君たちは水面から顔を出した」 教授「あたりの風景は?」 GM「のどかな山村のように見える。時刻は夜らしく、かなり暗い」 教授「よかった。太陽が照ってたら、私、ダメージ食らうんですが(笑)」 三太「そんなこともあろうと、ほれ、この半透明のビニール袋を(笑)」 GM「ちなみに、村の向こう側には怪《あや》しい光がピカピカ光っていて、その手前に小さな人影《ひとかげ》が動いている」 湧「今のうちに妖怪になっといたほうがいいような気がするな……男ども、あっちを向いてなさい! 水着を脱《ぬ》いで、上半身をTシャツに着替《きが》えてから変身するわ」  一行は妖怪の姿になって、村の端《はし》に着陸している円盤《えんばん》に接近する。円盤のわきにいた宇宙人(グレイ)たちもさすがに気がついた。 湧「そいつらを指さして……いったいここで何してるの! 邪悪《じゃあく》な宇宙人の陰謀《いんぼう》は、このあたしが許さないわ!」 三太「けっこう酔《よ》ってますね(笑)」 GM「そしたらリーダーらしい宇宙人が『おのれ、我々の基地を発見したか! ええい、かかれ!』と言う」 湧「うわあ〜!(頭を抱《かか》える)」 三太「どうしました、穂月さん?」 湧「こんな……こんな、うちの父さん好みの展開は、何だかすごく嫌!(笑)」  かくして、日本妖怪五体VSグレイ六体の戦いが開始された。  グレイは[物質透過]の能力を回避《かいひ》に利用する。湧の[切断糸]や教授の[地所波《ちざんは》]は、彼らの体をすり抜《ぬ》けてしまい、いっこうにダメージを与《あた》えられない。  しかし、[物質透過]は妖怪の肉体は透過できないという制約がある。だから肉弾戦《にくだんせん》は有効《ゆうこう》なのだ。流と三太は鉤爪《かぎづめ》で、輝之介は日本刀で攻撃《こうげき》する。次々に倒《たお》されていくグレイたち。  グレイも光線|銃《じゅう》で応戦するが、流や輝之介の防護点が高いため、ダメージは小さい。二体が死亡、一体が気絶した時点で、残りの者は円盤内へ退却《たいきゃく》しはじめた。それを追撃する流たち。さらに二体が死亡し、円盤内に逃《に》げ込めたのは一体だけだった。 湧「あとはUFOだけだ!」 教授「UFOに[地斬波]! さすがにお前は透過できないだろう(笑)」  円盤は強敵だったはずなのだが、五人がかりの攻撃の前に、たちまちボロボロになり、破壊《はかい》されてしまった。流たちも破壊光線でかなりダメージを受けていたが、幸い、重傷者はいない。戦闘《せんとう》は終わった。  一体だけ気絶していたグレイは、(縛《しば》り上げても無駄《むだ》なので)湧がしっかり押《お》さえつけ、訊問《じんもん》する。 湧「きりきり白状しなさい」 三太「河童《かっぱ》さんたちはどうしたんですか?」 GM「『ふふふ……あのような下等なは我々の目的には不要だ』」 湧「目的って何?」 GM「『それはもちろん地球|征服《せいふく》だ!』」 三太「ばた(笑)。後ろで倒れてます」 湧「しょうがないよね。この人たちはこういうものとして生まれて来たんだから」 教授「そこらへんで[来歴感知]をやってみよう。この場所でどんなことが起きたかを調べてみる」 GM「円盤が沼《ぬま》の中から飛び出して、河童たちを攻撃している光景が見える。上から熱線を放射して、皿を乾《かわ》かしてるね」 一同「おお!(笑)」  河童たちは水分を奪《うば》われてミイラのようになり、一|軒《けん》の家に詰《つ》め込まれていた。幸い、まだ息はある。流が水を吐《は》いて、彼らを生き返らせた。 GM「河童の長老が君たちに礼を言う。『ありがとうございます。我々はあの連中になぶり殺しにされるところでした』」 三太「なんと残酷《ざんこく》な!」 流「ところで、重大な問題があるんですが……河童の美しい娘《むすめ》さんというのはどこにいるんでしょう?(笑)」 湧「やかましい!」 三太「でも、妖怪は不老不死なんだから、まだ生きてるかもしれないよ」 湧「じゃあ、これこれこういうわけで……と、笹岡さんに聞いた話をしましょう」 GM「すると一|匹《ぴき》の雌《めす》の河童が、『あっ、それは私のことです』」 湧「そうですか、あなたが……」 三太「実はあなたの子孫の一人が、あなたの話をちゃんと覚えていました。それでここに助けに来ることができたのです」 GM「『そうですか……私、人間の世界からこの世界に帰ってきたんですが、ずっと人間の世界に残してきた子供のことを考えておりました。でも、私の娘が無事に育って、子孫を残していたと知って、安心しましたわ』」 湧「……というわけで、この一匹残った宇宙人の処遇《しょぐう》はあなた方にお任せします」 流「こいつ、物質|透過《とうか》しますから、がっちりつかんで放さないように」 GM「『わかりました。この者にはたっぷり仕返しをさせていただきます』」 三太「河童の仕返しか。怖《こわ》いなあ(笑)」 湧「とりあえず、宇宙人の尻子玉《しりこだま》を抜くんでしょう(笑)。やだわ。あたし、見たくないから帰ります」  かくして河童の里に平和を取り戻《もど》した一行は、元の世界に戻ってきた。 GM「というわけで、事件は解決したんだが……オチがないねえ」 三太「やっぱり翌日の学校で、輝之介くんとの噂《うわさ》が広まりまくってるというのはどうでしょう?」 GM「夜明けの学校から二人で出てきたところを、誰《だれ》かに目撃されたわけね」 湧「三条院|先輩《せんぱい》! 嘘《うそ》です! 誤解なんですう!(笑)」 GM「画面がすうっと小さくなって、湧ちゃんの泣き顔だけが残る」 湧「それを押し広げて……誤解なんですう!」 [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [ <あおぞら模型《もけい》> 主人《しゅじん》] 人間の姿:九〇歳ぐらいの老人。 本来の姿:同じ。体はプラスチックでできている。 特殊能力:まぼろしの模型店に棲み、店内に絶版プラモを造り出す。 職業:模型店主人。 経歴:絶版プラモを欲しがるプラモ・マニアたちの妄想から生まれた。 好きなもの:子供。 弱点:高熱やシンナーを浴びると体が溶ける。 [ノイズ] 人間の姿:なし。 本来の姿:もともとは実体がなかったが、後に携帯電話に小さな手足が生えた姿になった。 特殊能力:あらゆる情報の伝達を阻害する。記憶を思いだしたり、認識したものを脳がとらえるまでも妨害してしまう。世界が雑音で満たされる。 職業:なし。 経歴:あらゆる雑音の集合に、自殺した少女の思念が反映して生まれた。 好きなもの:すべての意味を見失った人間が狂乱し殺しあう姿を見ること。 弱点:みずからの存在に意味と名を付与されると、実体を持つ。 [算《かぞえ》の眼鏡《めがね》] 人間の姿:やや額が張り出した小柄な老人。 本来の姿:べっこう縁の古めかしい眼鏡。 特殊能力:高い計算能力を着用者に付与。着用者が、(ゲームや賭博において)初心者であれば幸運を、熟練者であれば不幸をもたらす。 職業:なし。 経歴:「計算による予想」に万能性を夢見た人間たちの想い、そして、それを覆されることを否定しようとする「ビギナーズ・ラック」という言葉への信仰から生まれる。 好きなもの:ゲーム、賭博。「何かを予想する」こと。 弱点:戦闘能力はほぼゼロ。 [痩《や》せ女《おんな》] 人間の姿:なし。 本来の姿:ベールで顔を隠した痩身の女性。ベールの奥に顔はない。 特殊能力:やせたいと願う女性に憑依してダイエットを強要する。そのためには「自分のようになりたくないか」と訊ね、了解を得ることが必要。 職業:なし。 経歴:痩せたいと願う女性の想念から生まれた。当初は、減食の意思を強くさせるなど、ダイエットを手助けする妖怪だった。しかし、際限がない女性の痩身欲で歪んでしまい、死にいたるダイエットを強要するようになる。 好きなもの:取り憑くことを許した女性。 弱点:自分の存在を否定されると術が解ける。 [稲垣《いながき》織穂《しきほ》(妖狐《ようこ》)] 人間の姿:切れ長の目をした美女。 本来の姿:つややかな金色の毛並みを持つ双尾の狐。 特殊能力:狐火を飛ばす(燐が必要)。憑依することで肉体を支配できる。無生物以外にものに化けることができる。 職業:なし。 経歴:遠い昔、愛する人間に裏切られたことから人を信じられなくなっている。以来、人とかかわらずに生きてきたが、霧香と接触してから少しずつ心を開きつつある。 好きなもの:黒を基調とした服。 弱点:清められた護符に触れることができない。松葉の煙にいぶされると動けなくなる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  うふふふふふふふふふふふふふふ。  おっと失礼。久しぶりの <妖魔夜行《ようまやこう》> で、ついつい笑ってしまいました。もちろん、妖怪と人間が同居するこの世界の物語は、 <百鬼夜翔《ひゃっきやしょう》> という姉妹《しまい》シリーズで、相変わらず書き続けてきたので、離《はな》れていたという感じはしないのですが、キャラクターたちとは久々の再会になりますもので。  おっと、御挨拶《ごあいさつ》が遅《おく》れました。執筆《しっぴつ》至同を代表しまして、あとがきを書かせていただきます、友野詳です。  読んでくださったみなさまはおわかりのように、この <妖魔夜行> というシリーズは、さまざまな『想《おも》い』が形をとって生まれた「妖怪」たちが織りなす多くの物語をおさめたものです。  時には互《たが》いに関連していることもあれば、まったく独立した物語もあります。  共通した背景を持った短編が四作と、リプレイが一作、収録されています。シリーズではありますが、物語は連続しているわけではありませんし、主人公すらばらばらです。どれから読んでいただいても、まったく大丈夫《だいじょうぶ》になっています。  もし、この『幻《げん》の巻』で気に入っていただけたなら、どうか他の <妖魔夜行> そして、姉妹|篇《へん》である <百鬼夜翔> を手にとってやってください。この本以上にバラエティあふれる、さまざまな妖怪たちの、さまざまな物語が収録されています。  実のところ、昨年に出版された『戦慄《せんりつ》のミレニアム(上・下)』で、シリーズは完結ということになっていたのですが、何作か、文庫に未収録のまま残っていた作品がいくつかありまして、それだけはちゃんとまとめておかないといけないね、と相談していたのです。  若返った新メンバーによる、怪奇《かいき》妖怪アクション(&ホラー&なぜだかほのぼの)シリーズ <百鬼夜翔> も、四冊を数えて(言っている間に一月には五冊目が出ますが)、安定してきたところで、「では、懸案《けんあん》のものを」という運びになったわけです。  あやうく幻《まぼろし》になって消えてしまうところだった作品を集めた本ということで、今回の『幻の巻』というタイトルになりました。読みたいと言ってくださった読者のみなさまと、尽力《じんりょく》してくださったスニーカー文庫編集部のみなさまに感謝を。どうか、照れずに受け取ってください。  多少|蛇足《だそく》ではありますが、収録されている作品個々について少々。 『まぼろし模型』と『虚無《きょむ》に舞う言の葉』の二篇は、 <妖魔夜行> をメインで担当してきた二人、山本弘と友野詳によるもので、以前に角川ミニ文庫『まぼろし模型』のために、書き下ろされたものです。文庫収録にあたって、若干の加筆と訂正をほどこしています。 『まぼろし模型』は「妖魔夜行では、いま自分が興味を持っていることを題材にする」と言っている山本弘らしい作品です。なにせ、登場する妖怪のフィギュアを自作しちゃったりする造形好きの作者ですので。ちなみに、 <妖魔夜行> 執筆|陣《じん》の多くが所属するグループSNEのホームページ「http://www.groupsne.co.jp」を細かく探しまわっていただくと、その自作フィギュアの画像が見つかったりなんかするはずです。『虚無に舞う言の葉』は、私の作品ですので、いまさら何を言っても照れます。読んでやっていただければ幸いです、ということで。  続いての『未完成方程式』及《およ》び『狐高《ここう》』は、かつて <妖魔夜行> が連載《れんさい》されていた雑誌「コンプRPG」(現在は休刊)に掲載《けいさい》され、タイミングずれのために、文庫未収録になっていたものです。『未完成方程式』は、グループSNEきっての理系ゲームデザイナー、自称《じしょう》�天才�清松みゆきの作品です。清松独特のゲームについての考察も興味深い一篇です。パソコンの日進月歩におどろいてください(笑)。『狐高』は、姉妹シリーズ <百鬼夜翔> にも作品を寄せている、西奥隆起のデビュー作にあたります。維誌掲載時はペンネームが違《ちが》っていたりしました。当時は、アイデアや一部の文章に協力した友野との共作とクレジットされていたのですが、今回、大幅《おおはば》に改稿《かいこう》してありますので、西奥単独作品のクレジットに戻《もど》っております。  最後の一篇、ちょっとものスゴいタイトルのは、小説ではありません。リプレイです。やはり、「コンプRPG」に収録されたものですが、これもタイミングのせいで、どこにも収録されずにきたものです。リプレイというのは、テーブルトークRPGを遊んでいるようすを文章に書き起こし、独立して読めるエンターテインメントに仕立てあげたものです。このリプレイで使われている『ガーブス妖魔夜行』というルールは、現在入手が難しくなっていますが、完全リニューアルした『ガーブス百鬼夜翔』というルールが、この年末から年始あたりに出版される予定です(富士見書房さんから大判単行本で)。遊び方をさらに詳しく知りたい、やってみたいという方は、それとほぼ並行《へいこう》して出版される『百鬼夜翔リプレイ』(富士見ドラゴンブック)を、どうかお手にとってみてください。現在、友野が全開執筆中です。  これで、一篇だけをのぞいて、『妖魔夜行』の(エッセイやゲームサポート記事)をのぞいては、ほぼ文庫に収録されたことになります。『妖魔百物語』というシリーズもありましたが……ええと、すいません。努力だけは続けます、はい。  ともかくも、次は <百鬼夜翔> の五冊目です。山本弘、高井信、そしてグループSNE外からの新鋭《しんえい》ゲスト秋口ぎぐる先生を迎《むか》えてお送りします。  妖怪と人間という、光と影《かげ》のかかわりを描《えが》く小説シリーズ、まだまだ豊穣《ほうじょう》な物語の泉は尽《つ》き果てません。ではまた、夜の狭間《はざま》でみなさんとめぐりあえますことを祈《いの》って……。たぶん、お会いできるでしょう。ふりかえってみてください。  ほら、帰り道、ありませんよ?   二〇〇一年九月四日 [#地付き]友野�稀文堂には行ってみたかったなあ�詳   [#改ページ]   <初出>  第一話 まぼろし模型             山本  弘 「シェアード・ワールド・ノベルズ 妖魔夜行 まぼろし模型」                 (角川mini文庫)99年2月刊  第二話 虚無に舞う言の葉           友野  詳 「シェアード・ワールド・ノベルズ 妖魔夜行 まぼろし模型」                 (角川mini文庫)99年2月刊  第三話 未完成方程式             清松みゆき                 「コンプRPG」96年10月号  第四話 狐高                 西奥 隆起                 「コンプRPG」95年2月号  第五話 どっきり! 私の学校は魔空基地?   山本  弘                 「コンプRPG」94年12月号      ブリッジ               友野  詳 [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 幻《げん》の巻《まき》  平成十三年十月一日 初版発行  著者——山本《やまもと》弘《ひろし》・友野《ともの》詳《しょう》・清松《きよまつ》みゆき・西奥《にしおく》隆起《りゅうき》